2026年8月13日付渓流斎ブログ「新発見!新宿ムーラン・ルージュの劇作家高悠司のこと」の続きです。

本当は、「ムーラン・ルージュ新宿座」の劇作家だった高悠司(私の大叔父=祖父正喜の実弟=に当たる高田茂期)の長男で、ブラジルに渡ってサンパウロ新聞社の記者になった高田博人のことを書こうと思いましたが、どうもAIに頼り過ぎて、怪しい、疑わしいところが出てきました。AIはまだまだ信用出来ません。そこで、もう一度、アナログ時代に戻って、文献で調査研究しようと思ったのです。
創設者は佐々木千里
まずは、押田信子著「元祖アイドル『明日待子』がいた時代ームーラン・ルージュ新宿座と仲間たち」(育鵬社、2022年8月10日初版)が見つかりました。「ムーラン・ルージュと言えば、明日待子」と言えるぐらい超人気の大スターです。当時、カルピスやエビスビール、花王石鹸、ライオン歯磨、キッコーマン醤油など多くのCMポスターにも採用されていました。
この本は、この明日待子(1920〜2019年、99歳没)の評伝ですから、明日待子のことは非常に詳細に語られていますが、私の目的は劇作家の高悠司でしたから、本文に高悠司が出て来るかどうか探しました。そしたら、やっと1カ所(53ページ)だけ出て来ました。しかし、名前だけで経歴も何も書かれていません。
AIでは、ムーラン・ルージュは、高悠司も所属していた劇団黒船座が発展的解消・改称して創設された、と書かれていましたが、本書では、黒船座の「く」の字も出て来ませんでした。ムーラン・ルージュを創設したのは、静岡県御殿場出身で、陸軍戸山学校軍楽隊で学び、浅草オペラの舞台も踏み、浅草「玉木座」の支配人だった佐々木千里(本名勝間田兵吉、1891〜1961年、69歳没)でした。岩手県釜石市から上京してきた13歳の少女小野寺とし子を自分の養女にして、「明日待子」の芸名を付けたのもこの佐々木千里でした。
豪華な文芸部員
「ムーラン・ルージュ新宿座」(客席430人)は昭和6年(1931年)12月31日に開館します。しかし、1年ぐらいは客の不入りなどで座付き作家の吉行エイスケ(吉行淳之介、吉行和子の実父)らが翌32年5月に退座します。6月に文芸部にサトウハチロー、菊田一夫、俳優陣に藤原釜足、大友純らが加入し、サトウハチローは劇団歌まで作りますが、素行の悪さから佐々木千里よりクビを宣告されます。
佐々木は8月に一度、劇団を解散し、9月から再出発します。この時、辞めていった文芸部の劇作家で再加入したメンバーの中に、島村龍三、伊馬鵜平とともに名前が挙げられていたのが高悠司でした(53ページ)。でも、名前だけで、本書には、この人物の略歴もなければ、手掛けた作品名も出て来ませんでした。
ただ、名前だけでも「高悠司」が活字として出て来てくれて嬉しかったです。私にとって30年以上謎の人物として探していましたから、実在が確認出来ただけでも有り難いのです。
伊馬鵜平と菊田一夫とサトウハチロー
先述した伊馬鵜平(1908〜84年、75歳没)は、明日待子が文芸部三羽烏の一人として挙げるほどの代表人物で、私は高校生の頃、太宰治を通して彼の名前を知った程度で、ムーラン・ルージュに関係していたことを知りませんでした。
國學院大出身の折口信夫の門下生で、戦後、折口の発案で伊馬鵜平から伊馬春部に改名します。戦後、NHKラジオの「向こう三軒両隣」が好評を博します。太宰が心中前に、親友の伊馬春部宛てに色紙を残しています(伊藤左千夫の短歌「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」)。
文芸部の「出世頭」は、菊田一夫(1908〜73年、65歳没)でしょう。昭和10年(1935年)に東宝に移籍しますが、戦後、「鐘の鳴る丘」「君の名は」「放浪記」など誰もが知る数々の名作を残しましたので、最も有名かもしれません。
サトウハチロー(1903〜73年、70歳没)は、著名な詩人、作家、作詞家で「リンゴの唄」「長崎の鐘」が代表作です。父は小説家の佐藤紅緑、異母妹が作家の佐藤愛子です。女優小林千代子のお弁当を、彼女が舞台に出ている間、無断で食べるなど素行が悪かったため、わずか2カ月でムーラン・ルージュをクビになったといいます。
劇場プログラムにも名前が
また、本書巻末には「ムーラン・ルージュ新宿座の劇場プログラム グラフィティ」(新宿区立新宿歴史博物館蔵)が掲載されていて、第2号(1932年1月1日)のプログラムの中に文芸部に所属する劇作家の名前が掲載されていました。高悠司は、龍胆寺雄、吉行エイスケ、楢崎勤、井上紫陽、村山謙二、清水ケイチウに続き7番目に掲載されていました。(この後、近藤敏夫、竹内敏雄の名前があり、文芸部には9人いたことになる)
もう一つの第27号(1932年7月27日)のプログラムの文芸部には、菊田一夫、吉田京、新藤健、加藤々吉郎、古山眞史、平川明、高悠司、山下伍七郎、サトウハチローの名前が書かれており、高悠司は相変わらず、9人中7番目のポジションでした。(名前の順番は、映画の俳優のクレジットと同じように、主役は1番目、準主役は一番最後に出て来るので、恐らく、文芸部のトップは菊田一夫で2番目はサトウハチローだったことでしょう)
高悠司(1910〜44年、本名高田茂期、33歳没、比レイテ島で戦死)が9人中7番目だったのは、当時、満21歳〜22歳の若手だったからだと思われます。

この本では、ムーラン・ルージュに関係した俳優、作家、そしてこの劇団を愛して足繁く通った有名人として志賀直哉や菊池寛、太宰治(伊馬鵜平の親友)、高見順、そして野末陳平(「ムーラン・ルージュ」を早大の卒論テーマにした!)らの名前も出て来ます。
意外な人物が登場
関係者の中には意外な人物が登場します。明日待子こと小野寺とし子が釜石時代にお世話になった人が当時釜石製鉄所庶務課長、後に日本製鉄社長を務めた三鬼隆で、その弟の三鬼(石井)誠の娘素子は、お笑いタレントの出川哲朗だというのです。看板女優関志保子の夫は、常連客で劇団民藝の重鎮となる宇野重吉(1914〜88年、73歳没)で、その息子は俳優歌手の寺尾聰です。
初代文芸部の責任者だった島村龍三(1905〜?)の妻は、看板女優望月美恵子(優子)の従妹で、娘の島村葉子は宝塚スターで、クレージー・キャッツのハナ肇と結婚。初期の専属作家だった中村正常は、女優中村メイコの実父、同じく初期の専属作家で戦後日本テレビの常務になる阿木翁助の孫は、元フジテレビ・アナウンサーの笠井信輔…といった具合です。
俳優・歌手陣は、私の知っている有名人に限ると、左卜全、由利徹、三木のり平、藤原釜足、有島一郎、森繁久弥、益田喜頓、坊屋三郎、谷幹一、春日八郎、女優・歌手陣には、望月美恵子(優子)、若水ヤエ子、三崎千恵子(葛飾柴又、寅さんのおばちゃん「つね」役)、そして笠置シヅ子、淡谷のり子、楠トシエ(黄桜の「カッパの歌」などCMソング)らの名前がありました。
この本には、高悠司は本文に1回しか出て来ませんでしたが、明日待子に関しては、著者は何から何まで調べ上げ、本人にも3回会ってインタビューしている労作でした。
演劇史や歌謡史、昭和初期の文化芸術に興味がある人にはお勧めです。

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