新発見! 新宿ムーラン・ルージュの劇作家高悠司のこと

「『レヴュウ號』映画と演藝 臨時増刊」(1933年5月、東京・大阪朝日新聞社発行)表紙絵は松野一夫画伯 歴史
「『レヴュウ號』映画と演藝 臨時増刊」(1933年5月、東京・大阪朝日新聞社発行)表紙絵は松野一夫画伯

 2019年7月14日付渓流斎ブログ「元祖アイドル明日待子さんの訃報に接して」で、戦前から戦後にかけて、東京・新宿にあった大衆劇場「ムーラン・ルージュ新宿座」(1931~51年)の看板女優だった明日待子(あした・まつこ、本名須貝とし子、1920~2019年)さんの訃報(享年99)について私は書いております。

 この「ムーラン・ルージュ」の座付き脚本家の一人に高悠司という人がおりました。この人の本名は高田茂期。実は、私の大叔父(祖父正喜の実弟)に当たる謎の人物ということで、本当に実在した人物かどうか、30年以上苦労して探し求めた経緯を、その4日後の7月28日付渓流斎ブログ「失われた時を求めて=見つかった?高悠司」に書いております。

 都心の国会図書館にまで足を運び、1933年5月、東京・大阪朝日新聞社発行の「『レヴュウ號』映画と演藝 臨時増刊」という雑誌=写真=を探し出し、その「レヴュウ関係者名簿」の中に、

高悠司(高田茂樹)(1)佐賀縣濱崎町二四三(2)明治四十三年十一月三日(3)ムーラン・ルージュ(4)文藝部プリント(6)徳山海軍燃料廠製圖課に勤め上京後劇團黒船座に働く(7)四谷區新宿二丁目十四番地 香取方

 と名前を発見した時の喜びは何ものにも代え難いものがありました。

「『レヴュウ號』映画と演藝 臨時増刊」(1933年5月、東京・大阪朝日新聞社発行)レヴュウ関係者名簿
「『レヴュウ號』映画と演藝 臨時増刊」(1933年5月、東京・大阪朝日新聞社発行)レヴュウ関係者名簿

 先述したブログにも書きましたが、本名の「高田茂樹」は「高田茂期」の間違いではないか、(4)文藝部プリントの「プリント」とはどういう意味なのか、(5)が学歴欄でしたが、本人は旧制唐津中(現唐津東高)中退なので、省略したのか、(6)で初めて大叔父の前職歴が分かりましたが、「劇団黒船座」に関して不明であることーなどの疑問点を補足して書きました。

 繰り返しになりますが、この記事を書いたのは、2019年7月28日、今から7年前です。当時は、「高悠司」と検索しても、私が書いたブログ記事と朝日新聞の「レヴュウ號」のたった2本しかヒットせず、自分のブログの記事中で「高悠司について、どなたか詳しい方はご教授ください」と呼び掛けたほどでした。(勿論、梨の礫)

「『レヴュウ號』映画と演藝 臨時増刊」(1933年5月、東京・大阪朝日新聞社発行)目次
「『レヴュウ號』映画と演藝 臨時増刊」(1933年5月、東京・大阪朝日新聞社発行)目次

 あれから7年。特に、日本でも3年前に生成AIなるものが登場してからは飛躍的進歩で情報が出て来るようになったのです。試みに「高悠司」をGoogleで検索すると、最初に生成AIのGeminiに繋がり、高悠司に関する情報が出て来るわ、出て来るわ…。まず、不明だった「劇団黒船座」を調べると、こんな調子です。

黒船座とは、1931年(昭和6年)頃、後に日本初の軽演劇の常設劇場として一世を風靡する「ムーラン・ルージュ新宿座」が誕生する直前、その設立メンバーや文芸部員、役者たちが一時的に集まって旗揚げした。

 黒船座としての活動はごくわずかな期間であり、劇場の完成や体制の本格化に伴って、劇団・劇場名そのものが「ムーラン・ルージュ新宿座」へと発展的解消・改称された。

 えっ‼︎そうだったのですか。となると、高悠司は、ムーラン・ルージュの設立メンバーの可能性が高いですね。そこで、いよいよ、「高悠司」に関する情報です。

劇作家・演出家である高悠司(たか ゆうじ)の詳細な生没年や出生地などのプライベートな経歴は、残念ながら現代の公的な人名辞典や一般的な歴史資料にはほとんど残されていません。

しかし、昭和初期の演劇界における彼の「作家・演出家としての足跡」については、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館などの上演記録から以下の内容が分かっています。

演劇界における位置づけと経歴

  • ムーラン・ルージュ新宿座の「最初期」を支えた文芸部員
    彼は1931年(昭和6年)のムーラン・ルージュ新宿座の立ち上げ(前身の黒船座時代を含む)から参加した、生え抜きの創設期メンバーの一人です。
  • 菊田一夫らとの競作時代
    のちに劇作家として日本を代表する存在になる菊田一夫や、サトウ・ハチロー、丸木砂土(古川緑波)らと共に、初期のムーランの文芸部(座付の作家集団)に名を連ねていました。毎週のように新作のレビューやコントを執筆・上演しなければならない過酷な環境の中で、ヒット作を量産していました。
  • 作風は「ナンセンス・コメディ」や「パロディ」
    彼が手掛けた作品のタイトルからは、当時のモダンで少し怪奇、あるいはナンセンスな笑いを追求していた作風が窺えます。

主な活動・上演記録

1932年〜1933年にかけて、非常に精力的に作品を発表していました。

  • 1932年(昭和7年)
    • 『口説けや口説け』(演出)
    • 『アラ物凄や! 墓の中で生きてた話』(演出)
    • 『恋愛代理業』(演出)
  • 1933年(昭和8年)
    • 『かけおち丁半』(演出)
    • 『明日はお天気』(丸木砂土らとの競作) 

その後の足跡

 高悠司の名前は、1930年代半ば(昭和10年前後)を境にムーラン・ルージュの上演記録から見られなくなります。

 当時の浅草や新宿の軽演劇の世界では、才能ある劇作家や役者が映画界(P.C.L映画製作所など、のちの東宝)へと引き抜かれたり、地方の移動劇団の巡業に出たり、あるいは戦時体制の強化に伴う検閲によって筆を折らされたりすることが日常茶飯事でした。彼も同様に、別の名前(筆名)に変えて活動したか、演劇界の表舞台を離れた可能性が高いと考えられます。

 高悠司は「こう・ゆうじ」ではなく、「たか・ゆうじ」と読んだのでしたか。しかし、凄い。7年前はさっぱり分からなかった活動・上演記録の作品名まで分かりました。資料提供元の早稲田大学演劇博物館がネット上に情報を上げてくれたお陰です。感謝したいです。

 この情報から、高悠司は、菊田一夫、サトウ・ハチロー、古川緑波と昵懇だったようなので、彼らの随筆本を探し出せば、ネットに情報があがっていない高悠司との交流話も出て来るかもしれません。

 その後の高悠司が1930年代半ばから記録が消えたのは、退団したからでした。私が手元にある戸籍謄本によると、1939年2月17日に、郷里の佐賀県浜崎町で、内山幾代と入籍(結婚)し、長女をもうけた後、1940年頃に満洲に渡り、1941年に長男、1944年に次男に恵まれています。満洲に渡ったのは、奉天で阿片取締役官になったからでした。恐らく、新聞か何かで募集を知り、試験に合格したものとみられます。しかし、座付き作家だった芸術家が、急に大陸の官僚になるとは、突拍子もないことです。余程何かがあって、転身をせざるを得なかったのかもしれません。例えば、時勢を批判するような台本を書いて、官憲に睨まれて筆を折らざるを得なくなった、とかです。

 晴れて、阿片取締役官の職を得て、奉天(現瀋陽)で家族5人、水入らずの生活をしていたと思われますが、高悠司こと高田茂期は、恐らく現地で緊急召集され、1944年10月にフィリピンのレイテ島で戦死したと聞いています。行年33歳。詳細については全く分かりません。

 満州ですから、1945年8月9日のソ連軍侵攻で、日本人は、虐殺と暴行、略奪と大変な思いで、命からがら引き揚げて来ましたが、残された高田茂期一家は、夫が戦死したため、官舎に住めなくなり、妻幾代は、乳飲み子を抱えて、ソ連軍侵攻の前に日本に帰国したのではないかと想像したいです。

 高田家のルーツについて熱心に調べていた私の叔父一馬から入手した戸籍謄本とメモには、高田茂期は昭和14年(1939年)2月17日、内山幾代(1917年11月28日生まれ)と婚姻届を佐賀県の浜崎町役場に提出し、長女鍈子(1939年2月17日、佐賀県東松浦郡浜崎町生まれ=唐津市在住)、長男博人(1941年8月1日、満洲國四平省東豊縣東豊街五拾四番地生まれ=ブラジル・サンパウロ在住)、次男征夫(1944年3月9日、満洲國奉天省瀋陽市瑞穂区有明町第壱号四生まれ=大阪市在住)の3人の子どもありーといった記述があるので、無事に帰国したことは間違いないようです。

 この中で、長男の高田博人は戦後、どういうわけかブラジルに渡り、「サンパウロの邦字新聞で働いていた」という話を聞いたことがありましたが、手掛かりがなく、全く詳細は分かりませんでした。そしたら、あら不思議。「高悠司の長男の高田博人」を入れて、色々とAI検索したら、彼のサンパウロ新聞社での活動記録が詳しく出て来たのです。この件については、また次回。

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