中野正昭著「ムーラン・ルージュ新宿座」(森話社、2011年9月8日初版)を数週間掛けてやっと読了しました。巻末のあとがきを入れて429ページの大作です。今から15年前に出版されたのですが、不勉強で、その存在を知らず、最近になってやっと手に入れました。大型書店に行って予約注文したところ、「版元との契約が切れていますので、予約出来ません」と言われてしまい、仕方がないのでネットで中古本を取り寄せました。
この本の右に出るものはない
戦前から戦中、戦後にかけて、年号で言うと1931年から1951年までの20年間、「ムーラン・ルージュ」から戦中は「むうらん るうじゆ」や「作文舘」に、戦後は「赤い風車作文座」「劇団小議会」そして「ムーラン・ルージュ」と名前を変え、何度か支配人(経営者)を変えながら、通算550回も公演を行った「軽演劇の昭和小史」(副題)が描かれています。
ムーラン・ルージュに関する「歴史書」としては、この本の右に出るものはないと思われるほど、精緻精細、詳細に書かれています。当時の著者中野氏は早稲田大学演劇博物館の招聘研究員や母校の明治大学などで非常勤講師を務め、1971年生まれということで40歳の若さです。恐るべき筆力の才能と博学の持ち主です。私は、この本から非常に多くのことを学ぶことが出来て、感服しました。
というのも、私は高校生の時、太宰治にハマってしまい全集を読破し、それがスピンオフして坂口安吾、織田作之助、檀一雄、田中英光、石川淳といった無頼派にハマり、同時に、関東大震災直後に虐殺された大杉栄のアナキズムや、辻潤らのダダイスムなどには、わけの分からないまま共鳴し、昭和初期の文学から芸術、思想に異様な関心を持っていました。しかしながら、学生時代は、映画中心で、演劇には全く興味がなかったせいか、築地小劇場や新派、新国劇や浅草オペラなどの名前は知っていても、演劇史に関しては深く知ろうとはしませんでした。知識に全く欠けていたわけです。
ダダイストのサロン「南天堂」
それが、この本には、漏れなくバッチリ書かれているのです。例えば、東京・白山の東洋大学の近くに南天堂という1階が書店、2階がカフェレストランという店舗がありました。その2階が、当時流行のプロレタリア作家やダダイストらが集うサロンのような中心地だったというのです。後に有名になるのが、作家は林芙美子や平林たい子、脚本家には、その後、ムーラン・ルージュでも活躍する菊田一夫や、サトウハチローらがいました。今では忘れ去られてしまった島村龍三という脚本家もいましたが、彼は東洋大学出身です。他に東洋大出身として参加した学生の中に岡村ニ一もいました。
この岡村ニ一は、この本では名前だけしか出てきませんが、後に、同盟通信(現時事通信と共同通信)の社会部長を務め、戦後は東京タイムズを創刊した人でしたので、私自身は名前は存じ上げていたのですが、若い頃、ダダイストだったとは知りませんでしたね。
川端康成の「浅草紅団」
昭和初期は、活動写真やトーキーはありましたが、テレビも動画もなく、文化芸術の中心は、志賀直哉や菊池寛、小林秀雄らの文学であり、そして舞台演劇でした。昭和4年に浅草四区で開場したカジノ・フォリーという小劇団がありました。エノケンこと若き榎本健一らが参加していました。しかし、浅草の盛り場の中心である六区から離れていたこともあり、客が不入りで「倒産寸前」に陥りました。その時に救世主が現れました。後にノーベル文学賞を受賞する若き川端康成です。「小説の取材のために話を聞きたい」という一通の封書が劇団に届きました。応対したのは当時、文芸部長だった先述の島村龍三です。
川端は、東京朝日新聞夕刊に「浅草紅団」を連載(昭和4年12月12日〜昭和5年2月26日)し、カジノ・フォリーを取り上げます。これが好奇心旺盛な東京人を刺激し、カジノ・フォリーの「インチキ・レビュー」の黄金時代が始まったというのです。こういう逸話は本当に面白いですね。
意外と明るかった?昭和初期
ムーラン・ルージュは「軽演劇」と呼ばれました。命名者は、昭和7年の「都新聞」(現在の東京新聞)の土方正巳という演劇記者(後に編集局長)でした。私は、当初、軽演劇というのは「軽薄」とか「軽率」といったネガティブな意味かと思ったら、「軽快」とか「軽妙」といったポジティブな意味だったんですね!当時は米国のジャズやハリウッドなどの影響で、震災後の都市風俗で「軽」を付けることが流行り、「軽音楽」とか「軽食」といった言葉が作られたというのです。これも、へーと思ってしまいました。
昭和初期と言えば、、五・一五事件、血盟団事件、満州事変、二・二六事件、そして日華事変(日中戦争)など軍国主義の暗いイメージが強いのですが、演劇はエンターテインメントですから、演劇史となると、これらの政治的、軍事的大事件は舞台の書き割りのように「背景」として描かれます。私のような近現代史に興味を持つ人間は、戦争史ばかり追いかけていましたから、この本はかなり新鮮な気持ちで読むことが出来ました。いつの時代も、大衆は「笑い」を求めており、食事を抜いてでも「文化芸術」に浸っていたいという気持ちが大変よく分かりました。出征前の若き兵士が、当時のムーラン・ルージュのスター明日待子に敬礼で挨拶する場面などは印象に残ります。
ムーラン・ルージュで大活躍した脚本家の伊馬鵜平は、太宰治の親友でした。太宰を通して、私は彼の名前だけは知っていましたが、彼の業績については本書で初めて知ることが出来ました。特に戦前のムーラン・ルージュの全盛期と言われた昭和8年の「桐の木横丁」は伊馬鵜平の代表作と呼ばれ、当時、彼が暮らしていた杉並区荻窪の天沼界隈のモデルに小市民コミュニティを描いていました。小市民とはプチブルのことです。ちょうど、昭和初期には中央線沿線には中産階級と呼ばれる小市民が家を建てて住むようになり、新宿で彼らのような若きインテリのプチブルが好む演劇が上演されるということで相乗効果になったことでしょう。震災後、東京は住民が西へ西への郊外に移動し、繁華街が浅草から新宿や渋谷に移る転期でもありました。
高悠司登場
そもそも、この本を買い求めたのは、個人的ながら、ムーラン・ルージュの文芸部で活動したという私の大叔父(祖父の実弟)に当たる高悠司(本名高田茂期)を探すためでした。有り難いことに、名前ぐらいですが、4回(114、124、131、161ページ)も出てきました!特に、4回目には「文芸部の知り合いだった横倉(辰次)は、これ以前から、なかなか書けない高に頼まれて代作していたからだ」などど不名誉なことまで書かれています(苦笑)。それでも、嬉しいですね。35年以上探し求めていた「謎の人」が登場してくれているのですから!
ムーラン・ルージュの関係者として、脚本家には中村正常(女優中村メイコの父)、吉行エイスケ(作家吉行淳之介らの父)、サトウハチロー、菊田一夫、伊馬春部(戦後、師匠折口信夫の発案で改名)、出身俳優には、森繁久弥、由利徹、谷幹一、有島一郎(加山雄三の若大将シリーズで、父親役)らがおり、女優歌手の楠トシエは、後にテレビのCMソングの女王と言われ、私の世代には、大変懐かしい黄桜の「河童の唄」や、船橋ヘルスセンターの「長生きしたけりゃ、ちょっとおいで〜」の唄も歌っていました。また、戦後のムーラン・ルージュ再建で経営陣の一人として名前を連ねた女優の三崎千恵子は、寅さんの柴又の団子屋のおばちゃん役で有名になりました。
ムーラン・ルージュは結構、奥が深いのです。


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