目下、ベストセラーとなっている河内春人(こうち・はるひと)著「継体天皇」(中公新書、2026年5月25日初版)をやっと読了できました。5月に発売された時からずっと気にはなっていたのですが、些事にかまけていて、購入したのは10月に入ってからでした。読了するのに1カ月も掛かりました。
ベストセラーというのは大袈裟ではなく、今年10月末時点で、10刷、10万部を突破したといいますから、この種の学術本としては異様な売れ行きです。「あり得ない」と言えば怒られるでしょうが、この間、高市政権による皇室典範の改正があったりして、「皇統」に関して近年稀に見る関心事となった影響があるのでしょう。
北陸方面から乗り込んだ?
私が継体天皇に初めて興味を持ったのは、2019年5月16日付毎日新聞の記事「天皇制の『伝統』とは 時代に即した柔軟性」を読んだからでした。伊藤和史記者が、仁藤敦史・国立歴史民俗博物館教授(当時)に取材して書いた記事で、第25代武烈天皇に皇嗣がなかったため、「6世紀初めに北陸方面から乗り込んだ継体天皇が即位」したというのです。この「史実」を初めて知り、私は腰を抜かすほど驚きました。「継体天皇から新王朝に変わっているので、神武天皇以来『万世一系』というのは大間違いだ」ということに気付かされたのです。継体天皇は、第15代応神天皇の5代後の孫とされますが、仁藤氏は「この系譜は後世に上乗せされた可能性が高い」と言うのですから、「応神の5代孫」説は後付けされた話ということになります。
河内氏の「継体天皇」の本の副題にある通り、継体天皇とは「六世紀に現れた世襲王権の『始祖王』」ということになります。継体天皇ことオホト大王という「北陸集団」の豪族は、第24代仁賢天皇の皇女・手白香と結婚しますが、仁籐教授によると、二人の間の皇嗣の欽明天皇が「女系天皇」に見えるというのです。ということは、今回の皇室典範改正で否定された「女系天皇」は、歴史上あり得たことになります。もっとも、欽明天皇から今上天皇に至るまで、「女性天皇」は存在しましたが、「男系男子」が世襲してきたことは史実ですが。
「日本書紀」は借用、引用だらけ?
何か、前置きが長くなりましたが、継体天皇とはどんな人物なのか、これほど一般読者に分かりやすく書かれた本はない、と言い切りたいところですが、人物相関関係がかなり複雑で、はっきり言って「旧約聖書」を読むのと同じぐらい難解です。よくぞ、こんな難しい本が大ベストセラーになったものだ、と感心してしまいました。日本人は頭が良いのか、それとも、最後まで読了できた人は少ないのでは?(笑)。
私のような不勉強な人間が、この本で一番驚かされたことは、日本古代の「正史」と言われる「日本書紀」に全て史実が書かれているわけではないということでした。これは、古代史専門の研究者なら当たり前の話なのでしょうが、漢文で書かれており、中国の史書(「史記」「漢書」「後漢書」「魏志倭人伝」など)からの借用や引用がかなり多いというのです。私は威張るわけではありませんが、原書で一度も読んだことはなく、現代文に意訳したダイジェスト版の「日本書紀」をかつて読んだだけなのでこれ以上詳しく語れませんが。
例えば、古代中国の史書にも精通した著者の河内氏は、妊婦の腹を裂いて胎児を見たり、生爪を剥がして芋を掘らせたりして、「日本書紀」では「暴虐の君主」として登場する武烈天皇は、「虚構」ではないかと主張します。というのも、中国の古典「呂氏春秋」に全く同じような妊婦の記事があるからです。他の暴虐記事も、前漢の劉向(りゅうきょう)が撰した「烈女伝」から多用されているというのです。
ですから、河内氏は、武烈天皇とは、「継体天皇への大王位の移行を正当化するために創り出された架空の天皇だったことを示している」とまで書くのです。
この他、継体天皇の時代、かなり朝鮮半島の百済や伽耶や新羅などと交流したり、敵対したりしましたが、かつて仮説として言われていた「植民地支配」のようなことまではなかった、という立場を河内氏を取っていました。また、継体天皇最大の危機、と言われた九州・筑紫の大豪族「磐井の乱」は、磐井から行動を起こしたものではない可能性があり、むしろヤマト政権側が、八女集団の磐井を挑発し、磐井がそれに反応した結果が「乱」になったのではないか、といった新説を唱えていました。これも、古代中国史書などを参照し、記紀を再分析した結果です。
古代天皇制の仕組み
何と言っても、この本が一番面白かったことは、古代の天皇制の仕組みが分かったことです。そもそも、「天皇」と称したのは7世紀の天武天皇(?〜686年)が最初という説が有力で、それまでは、「大王」と呼ばれていました(著者の河内氏は天智天皇が最初と主張していますが)。しかも、世襲制ではなく、大和(奈良県)などの有力豪族の中からいわゆる合議制で選ばれたというのです。大王位に即位できる人物を輩出できる王族集団は、複数存在し、五世紀は、古市集団(応神天皇ら)と百舌鳥集団(仁徳天皇ら)が最有力集団で、それに続くのが馬見集団(顕宗天皇ら)と北陸集団(継体天皇)だったといいます。
大王の権力は、恐らく、ルイ14世やフリードリヒ大王らとは比べるべきほどでもなく、単なる?「豪族たちの同盟的な連合体の盟主的立場」だったというのです。つまり、ヤマト王権は、必ずしも日本全国を完璧に統一して強権を発動していたわけではなさそうです。それは、吉備(岡山県)や北九州や、関東まで、それぞれ有力豪族らの大きな古墳があることでも分かります。地方は地方で、その土地の有力な豪族がいて、大王に対して同盟を結んでいたと考えても良いのでしょう。
六世紀初頭になって、衰退した古市集団に代わって継体天皇が即位します。継体天皇出身の北陸集団というのは、実は母親の実家のある今の福井県三国辺りで育ったからだと言われます。早くに亡くなった父親のウシ王は、近江出身の大豪族で、祖母は尾張出身ということで、北陸だけでなく、近江集団や尾張集団、そして毛野集団(今の群馬県と栃木県)からの援護と、大伴金村や物部麁鹿火(あらかひ)らの推挙もあって、継体天皇として選ばれたようです。
この継体天皇が凄いことは、この後の天皇が「男系天皇」として今現在でも続くことから、この本の副題にある通り、「世襲王権の『始祖王』」と呼ばれていることです。つまり、「万世一系」とは、歴史学的には、この六世紀のオホト大王(継体天皇の名称は、八世紀半ばに淡海三船が、歴代天皇を漢字ニ文字で表して名付けた)から始まったと言えます。これは、著者の河内氏が考えたのかもしれませんが、継体天皇のことを「世襲王権の始祖王」と名付けたことは、言い得て妙です。

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