10月31日に東京・早稲田大学で開催された第72回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催)に参列して来ました。前回の第71回研究会は、今年6月6日だったということで、実におよそ5カ月ぶりの開催です。かつては、月に1回のペースで開催されておりましたが、主宰者の山本武利早稲田大学・一橋大学名誉教授が、御自身の「著作集」(文生書院)の編集校正、増補改訂の作業に追われているためでした。
今回の共通テーマは「忘却された戦争の裏面」で、新進気鋭の学者と、斯界では有名なベテラン・ジャーナリストが登壇しました。正直言いまして、私自身ほとんど知らなかったことばかりで、かなり圧倒されました。いわば、現在進行形の「負の歴史」を追う話ですから、お二人のタフな精神力にには脱帽しました。
林英一氏「帝国崩壊期スマトラにおける日本人の秘密戦」
最初の報告者は、林英一・二松学舎大学文学部歴史文化学科准教授で、演題は「帝国崩壊期スマトラにおける日本人の秘密戦」でした。1945年8月のアジア・太平洋戦争での敗北後も、ビルマ、インド、インドネシアなど東南アジアに派遣された日本軍兵士の中には、そのまま現地に居残って、各国の植民地からの独立戦争に参加した人たちが結構いました。しかし、今ではすっかり忘れられた存在になっています。この中で、林氏は20年以上昔の学生時代から、特にインドネシアの「残留兵士」に興味を持ち、現地に行って直接会ってインタビューしたりして、その後、研究者の道に進んだといいます。今ではその残留兵らの多くは他界されてしまいましたが、先行研究史料なども駆使して、2023年に「残留兵士の群像」(新曜社)にまとめました。
私はこの本は未読ですし、林氏の報告は、ほとんど知らないことばかりでした。今回はインドネシアの残留兵の話が中心でしたので、林氏に個別に質問したところ、インドネシアの日本人残留兵の数は、900人ぐらいまでは統計があって分かっていますが、それ以上はよく分らないといいます。独立戦争後には約320人が生存して「インドネシア人」になりましたが、2000年代の生き残りは10人ぐらいだったといいます。残留理由は個人的なものが多かったので一概には言えないということでした。
何故、残留したのか?私の見立てでは、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱めを受けず」(戦陣訓)と教育されて南方に召集された兵士たちですから、日本に帰国しても、例えば軍法会議に掛けられるなど、どうせ碌な待遇をされることはないと恐れていたからだったと思います。
残留兵の多くはインドネシア独立戦争に加担したようですが、「インドネシアで最も有名な日本人」として前田精(まえだ・ただし)という情報士官(海軍少将)がいます。1945年8月16日夜から17日未明にかけて、スカルノやハッタら民族主義指導者が独立宣言書を起草・協議するための場所として、前田自身のジャカルタ公邸(現在は独立宣言起草博物館として保存)を提供し、日本軍部とインドネシア独立派の衝突や流血を防ぐため、双方の仲介役として重要な役割を果たしたといいます。前田は、これらの功績が称えられ、1976年にインドネシア共和国から「建国功労章」を授与されました。インドネシアでは教科書に掲載されているので、 前田のことを知らない人はいないといいます。
しかし、私も含めて、日本人のほとんどは前田精のことを知らないと思います…。
このほか、陸軍中野学校出身で、潜行に成功して、アチェで諜報謀略部隊をつくったりした岸山勇や、1945年3月に連合国軍上陸を阻止するために特別ゲリラ部隊「建国挺身隊」を組織し、自ら総司令となり、敗戦後は逃亡し、2年半ほど潜伏生活を送った井上哲郎(陸軍大尉)という変わった経歴の持ち主(北大農学部を卒業して酪農家になった後、陸軍に入隊。園部武夫の筆名で小説も執筆)の話なども紹介していました。
もし、もっと詳細が知りたくて、ご興味のある方は、林氏の著作「残留兵士の群像」をお読みになれば良いと思います。
栗原俊雄氏「戦争被害受忍論の現在」

次の報告者は、栗原俊雄・毎日新聞学芸部専門記者で、演題は「戦争被害受忍論の現在」でした。既に、「シベリア抑留 未完の悲劇」「遺骨 戦没者三一〇万人の戦後史」(以上岩波新書)「硫黄島に眠る戦没者 見捨てられた兵士たちの戦後史」(岩波書店)など著書多数のベテランジャーナリストで、かなり多くの講演活動もされている人でした。
今回の栗原氏の論点といいますか、主張を一言でまとめますと、(日本がGHQによる占領から独立を果たした)1952年以降、元軍人・軍属は累計60兆円の補償(軍人恩給など)を受けているというのに、10万人の犠牲者を生んだ東京大空襲を始め、原爆や空襲などで財産を失ったり、障害を負ったりした民間人らが国に補償を求めても拒否され、司法も「戦争では国民全体がそれぞれ被害者となった。それゆえ、国民全体が受忍しなければならない」という「受忍論」の法理を展開していることに対する憤りでした。
司法当局は、立法のせいだと、つまり法律がないので仕方がないという「たらい回し状態」が続いているというのが現状でした。戦後補償を拒否された民間人戦争被害者は、立法運動も行い、1970〜1980年代に、「戦時災害援護法案」など救済法案が14回も国会に提出されましたが、政府と与党自民党の反対で実現しませんでした。また、今年7月には、38年ぶりに救済法案が国会に提出されましたが、審議未了で廃案になってしまいました。なぜ民間人被害者の救済が実現しないのか。栗原氏は「戦争が終わっても、戦争被害は終わらない」という信念のもとで、救済法案の成立に向けて、今でも永田町のロビー活動まで行っているといいます。大変なガッツのある人です。同業者として、軟弱な私にはとても出来ませんが。
戦後補償問題に関しては、栗原氏自身の著者「戦後補償裁判 民間人たちの終わらない『戦争』」(NHK出版新書)や「東京大空襲の戦後史」(岩波新書)などに詳しく書かれていますので、ご参照ください。
栗原氏の報告で、一番衝撃的だった話は、東京大空襲で犠牲になった民間人の遺体処理でした。何しろ10万人も「虐殺」されたわけですから、色々な所で「焼き場」として遺体が処理され、遺骨は即席に、学校の校庭や空き地などに埋められたといいます。それが150カ所ほどあったといいますが、現在90カ所ぐらいしか分かっていないというのです(その一つが、池袋の南池袋公園で、「仮埋葬地」の表示看板があるのは都内でここだけだといいます)。その後、3年間で8万体の遺骨は掘り起こされましたが、残りの2万体は不明だといいます。
また、「焼き場」だった一つとして、上野の西郷隆盛の銅像の前もそうだったということで、栗原氏は毎年、東京大空襲のあった3月には必ずお参りに行くそうです。記録では886体の遺体が焼かれたそうです。私自身、上野の山と言えば、1868年、幕末の彰義隊の悲劇や、1923年の関東大震災の際に避難場所となったことは知っておりましたが、1945年の鬼畜カーチス・ルメイによる東京大空襲後に、「焼き場」になっていたということを全く知らずに、西郷さんの銅像前で平気で写真を撮っていたりしました。大いに恥じ入るばかりです。


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