追悼 藤原作弥さん

東京外語会会報 (2026年10月1日発行) 雑感
東京外語会会報 (2026年10月1日発行)

  昨年10月に亡くなったノンフィクション作家で、元日銀副総裁の藤原作弥さんの追悼文が、私の母校の東京外国語大学の会報(2026年10月1日発行)に掲載されました。

 拙ブログでも再録したいと存じます。

【イン・メモーリアム】

追悼 マルチタレントだった藤原作弥さん


 本学フランス語科を 1962 年に卒業した藤原作弥さんが昨年(2025 年)10 月 17 日に、病気のため横浜市の自宅で逝去されました。行年 88 歳でした。時事通信社の解説委員長を務め、記者としては異例の日本銀行副総裁まで務めた経歴は特筆に値し、新聞等でも報道されましたが、私(筆者)が身近に見て来た藤原さんの実像を含め、彼の業績を振り返ってみたいと思います。


 藤原さんは 1937 年、仙台市生まれ。作家井上ひさしらを輩出した名門仙台一高を経て、1962 年、東京外国語大学フランス語科卒業後、時事通信社に入社。経済部記者として活躍しました。私は、1980 年に同じく仏語科を卒業して時事通信社に入社し、藤原さんと全く同じ道を辿りましたが、私は主に運動部と文化部記者の道を歩みました。同じ会社でもマスコミの場合、所属部署が違うと別会社の人間のようで、何も知らずに終わってしまう場合が多いのですが、私と藤原さんとはたまたま色々と接点があったため、こうして、追悼文の執筆者として選ばれたのではないかと推測しています。


 さて、藤原さんが亡くなって早くも 1 年。もはや歴史上の人物として彼の業績を振り返ると、「マルチタレント」という言葉が最も相応しいかもしれません。本業は経済記者でしたが、時事通信が発行する会員向け小冊子「金融財政」に「カラム・コラム」を実に 52 年間(1973〜2025 年)も執筆し続けたコラムニストであり、代表作「聖母病院の友人たち」(日本エッセイスト・クラブ賞)や「李香蘭 私の半生」(ともに新潮社)など多くの著作を発表したノンフィクション作家であり、大宅壮一ノンフィクション賞の選考委員でもあり、日銀の副総裁などを務めた公職者としての顔もありました。


 藤原さんの著作を読むと彼の人柄がよく分かりますが、実際に接しても、大変腰が低くて偉ぶった所がなく、非常に人当たりが良く、紳士的で優しい、といった良い面ばかりが浮かんできます。しかし、人間ですから、他人には見せない影の部分もあったかもしれませんが…。
 藤原さんの場合、名声が上がると、周囲からのやっかみや反感の声も聞かれました。「激務の職場なのによくアルバイト原稿など書けるものだ」「日銀を批判する立場の記者がよく体制派に潜り込んでうまくやったものだ」…等々です。
 しかし、藤原さんは幸運にも恵まれていて、それらに反論する「場」がありました。連載コラムをまとめた「攻守ところを変えて」(時事通信社)、「素顔の日銀副総裁日記」(集英社)などを読むと、コラムの執筆は早朝 5 時には起きて、仕事以外の時間帯で行っていたこと(私の時事通信同期で藤原さんの経済部の直属の後輩だった泉正樹君によると、仕事が終わった夕方、飲みに行く前に、「ちょっと待って」と言ってわずか 10 分でコラムを書き上げたこともあったそうです)、日銀副総裁になってもコラムを書き続ける条件として、「守秘義務のある金融政策等には触れず、休日など仕事の時間外に書くこと」といったことがあり、それでもコラムを書き続けたかった藤原さんは、日銀在職中は無報酬で書いていたのです。やはり、記者職が天職だったのでしょう。


 私と藤原さんとの接点は 1992 年頃、私が文化部記者時代に藤原さんに書評委員をお願いしたり、新年企画原稿で、時事通信解説委員長として、日本文学者のドナルド・キーン氏との対談相手になってもらったりしてからです。お会いする度にその人間的大きさに触れることが出来ました。後輩なのに、初対面で「高田君」ではなく、「高田さん」と言われた時は驚いたものです。しかし、その半面、藤原さんには、何処か、隠しても隠しきれない「心の闇」を感じることがありました。

 それは、戦後、朝鮮半島から引き揚げて壮絶な苦労をした作家の五木寛之氏と通じるものがあります。

 藤原さんも、言語民俗学者だった父勉の仕事で住んでいた満洲(現中国東北部)の興安街(現中国内モンゴル自治区ウランホト)で、昭和 20 年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄して侵攻して来たソ連軍から逃げるためにいち早く街を脱出しました。しかし、遅れて避難した在満国民学校の同級生らを含む一行約 1200 人は、ラマ寺院のあった葛根廟で、ソ連戦車軍団の機銃掃射によって 1000 人以上が大量虐殺されたのです(葛根廟事件)。

 この話は、「満洲 少国民の戦記」(社会思想社)などに詳しいのですが、藤原さんには「奇跡的に生命が助かった」と安堵する一方、「自分だけが助かって友人たちには申し訳ない」といった後ろめたさがあったに違いありません。それを生涯、ずっと引きずって来られたというのが隠れた本音だと思われます。
 また、北朝鮮国境近い安東(現丹東)で 2 年近く、難民生活を送りますが、そこで見たものは「銃殺刑、市街戦、餓死病死、強盗窃盗、婦女暴行」です。これだけ嫌な「大人の世界」を見てしまっては、わずか9 歳にして人生を達観してしまうのも当然です。それが「李香蘭」を含め、いわゆる「満州もの」の著作の執筆に繋がったことは間違いありません。
 藤原さんの父勉は言語民俗学者だったことは書きましたが、祖父相之助は「河北新報」の主筆から民俗学者になった人でした。藤原さんの文章の読み易さと巧さは遺伝的要素が強かったのです。
 また、藤原さんの人脈の広さは驚異的でした。何しろ、年賀状は 600 枚もやりとりするほどでした。大蔵省記者クラブを担当した時は当時の田中角栄、福田赳夫蔵相と昵懇になり、ワシントン特派員時代に知り合った作家の遠藤周作や読売新聞の主筆と会長に上り詰めた渡辺恒雄と生涯付き合い、満州関係で、李香蘭こと山口淑子や漫画家の赤塚不二夫や日銀総裁を務めた三重野康らと親しくなり、政官財界から芸能界に至るまで幅広く交際していました。

 ところで、藤原さんは経済記者として名を残しましたが、本当は数字を扱う経済学が嫌いで会社を辞めようと思ったこともあったようです。大学時代は「国際経済関係」ではなく、「語学文学関係」専修を選んで鈴木健郎ゼミに所属し、卒論は「第一次大戦前後、激動の新興芸術時代に若きレイモン・ラディゲはなぜ古典的静謐を保ち得たか」でした。また、同人誌「外語文学」を復活させた立役者の一人でした。バリバリの文学青年だったのです。

 となると、藤原作弥さんも時代の申し子で、戦中派の彼にしか書けない作品を多く残しました。同じ東京外語大出身の永井荷風(清語科)、石川淳、中原中也(ともに仏語科)、新美南吉、五味川純平(ともに英文科)、神西清、米原万里(ともにロシア語科)らとともに、文学史に名を残すことでしょう。私はそう確信しています。(藤原作弥さん以外の故人は敬称略。本稿執筆に当たり、中山恒彦、土山真人、泉正樹、鈴木豊、佐藤喜之、星田淳一、岡本兼二の各氏に取材でお世話になりました。本稿で書けなかったことは拙ブログ「渓流斎日乗」 https://keiryusai.net/ をご参照ください)

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