有栖川宮記念公園にまつわる話 30年ぶりに旧友と再会

有栖川宮記念公園の案内図 歴史
有栖川宮記念公園

 3月23日(土)、大学予備校時代の旧友と約30年ぶりに再会して、2時間ほどの短い同窓会を開きました。場所は、末岡君が住む東京・麻布の邸宅です。私が彼の自宅を訪れたのは20年ぶりぐらいでした。30年ぶりに再会したのは、徳島県に住む近藤君とで、そもそも彼が「終活」のために、「元気なうちに若い頃の昔の馴染みの人に会っておきたい」ということで急に3週間ほど前に彼から連絡があったのでした。

 「終活」といっても彼はまだ68歳です。でも、徳島県の健康寿命の平均が71歳ということで、彼自身も膝痛などで健康に不安を感じたことから、「早いうち」にと思い立ったようです。徳島県は日本一健康寿命が短いらしく、その理由については、近藤君は、車社会で、隣のスーパーでも車で出かけたりして、ほとんど歩かないからではないかと推察していました。

盛岡南部藩下屋敷だった有栖川宮公園

 待ち合わせの場所は地下鉄広尾駅でした。劇的な再会のお話は後回しにしまして、私は早めに家を出て、広尾駅に近い有栖川宮記念公園を探索しました。昔はこの公園にしょちゅう足を運んだものです。公園というより、この公園内にある東京都立中央図書館にです。ですから、この公園は、明治に有栖川宮の御用地だったことは知っておりましたが、江戸時代はどうだったかまでは思いも寄せておりませんでした。

今回、初めて認識したのですが、ここは元々、盛岡南部藩の下屋敷だったというのです。

有栖川宮記念公園 盛岡南部藩下屋敷の風情
有栖川宮記念公園

 南部藩の上屋敷は、私が勤めている会社が以前あった日比谷公園の市政会館にあったことは知っておりましたが、南部藩の下屋敷がここにあったとは! 公園入口の案内図で初めて知りました。

 ついでながら、麻布界隈は現在、超高級マンションが立ち並んでいますが、元々は大名屋敷があった所で、末岡君のお住まいも土浦藩の下屋敷があった所だったということでした。

公園内には、この公園の所縁のある有栖川宮熾仁親王の銅像がありました。

有栖川宮記念公園内にある有栖川熾仁親王の銅像
有栖川宮記念公園内にある有栖川熾仁親王の銅像

 看板には「有栖川熾仁(ありすがわ・たるひと)親王(1835~1895年)は有栖川宮家九代目の親王で、明治維新、西南の役、日清戦役ですぐれた武功をたてられました。」などと書かれています。また、港区ゆかりの人物データベースサイトには「17歳のときに当時6歳の皇女和宮と婚約しましたが、のちに和宮は『公武合体』の目的で14代将軍家茂と結婚させられてしまいます。熾仁親王が反幕府・尊王攘夷派となったのは、この婚約破棄がきっかけとも言われています。国事御用掛に任命されましたが、禁門の変ののち失脚。王政復古後は新政府の総裁となり、戊辰戦争では東征大総督に就任して、江戸城を無血開城させました。」とも書かれています。

有栖川宮と関わった先祖

 有栖川宮熾仁親王は、意外と知られていませんが、歴史上かなり重要な人物なのです。私は早いうちから親王のことを存じ上げていたのは、私の曾祖父に当たる高田庄太郎(1870~1948年)がこの有栖川宮熾仁親王が高田家と関わりがあったことを書き残してくれていたからです。

 それによると、私の高祖父に当たる庄太郎の父高田寛蔵正行(1844~1921年)は、久留米藩御舟手役の下級武士でしたが、明治元年(1868年)の戊辰戦争の際、久留米藩正規軍とは別に尊王攘夷派の水野正名によって組織された応変隊に入隊し、江戸で、総大将(東征大総督)の有栖川宮熾仁親王の軍馬が荒れ狂って、敵地に突進しようとした寸前に軍馬を諫めて、宮様の窮地を救ったといいます。この功で、宮様から名刀「兼氏」を授けられたというのです。この名刀は高田家の家宝として伝えられましたが、私の父親の回想では、太平洋戦争時、金属の拠出で供用したということでした。

 いずれにせよ、私にとっては、有栖川宮熾仁親王は、先祖がお世話になった人なので、とっても身近に感じてしまっているのです。

ここまで来たので、東京都立中央図書館にも寄ってみました。

有栖川宮記念公園内の東京都立中央図書館
東京都立中央図書館

 昔は、仕事でちょっとした調べものをするために、ちょくちょく来たものでした。しかし、2010年頃からあまり行かなくなりました。何故なのか? 自分で振り返ってみたら、その頃からネット情報が充実し始めて、ちょっとした調べものはネットで済んでしまったからだと思います。勿論、ネット情報には偽情報が多く、本格的な調べものはやはり書籍に頼らざるを得ませんが。

待ち合わせ時間が迫って来たので、広尾駅方面に向かいました。そしたら、有栖川宮記念公園近くに、高級スーパーで知られる「ナショナル麻布」があることを思い出しました。

有栖川宮記念公園近くにある高級スーパー「ナショナル麻布」
有栖川宮記念公園近くにある高級スーパー「ナショナル麻布」

 麻布界隈にはフランス大使館など外国大使館が多く林立し、高級スーパーは大使館の家族御用達として成立しているのです。このスーパーをつくったのは、映画の製作、配給や衛星放送事業を行う東北新社の植村伴次郎(1929~2019年)だという話を業界に詳しい人に聞いたことがあります。植村伴次郎さんは業界では知る人ぞ知る有名人なのですが、社長自らよくスーパーの周りを掃除していたのに、誰も気づかなかったという逸話を残しています。

「俺の人生は始まっていない、これからだ」

 さて、本題の予備校時代の同窓会の話ですが、積もり積もった話で2時間はあっという間に過ぎてしまいました。もう半世紀近い大昔の話なのに、お互い19歳の頃に戻ってしまいました。これだけ何十年もブランクがあっても、結びつき(御縁)がなくならないのは、当時の友人で受験生仲間だった新潟県柏崎市出身の加納弘規君が20歳の若さで亡くなったことがあります。彼は一人っ子だったので、御両親が大変悲しんで、四十九日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌と年期法要を柏崎市の菩提寺で行い、その度に友人たちを呼んでくれたのでした。亡くなった加納君が我々の縁を結んでくれていたということです。

 あまりプライベートのことを書いては怒られますが、近藤君は「終活」として徳島から上京し、今回、柏崎市まで行って来たということで、加納君の御母堂と従妹さんの話も聞きました。もう一人の末岡君は、私生活で色々と苦労しながら、その楽観的な性格は全く変わっていません。目下、独身ですが、これから結婚して子どもは3人ぐらい欲しいといい、「俺の人生はまだ始まっていない、これからだ」と言うのです。終活の近藤君は「終わった人」というのに、末岡君は「これからの人」。2人を見比べて私は爆笑してしまいました。

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