国宝にも指定されている「洛中洛外図屏風(らくちゅう らくがい ずびょうぶ)」がありますが、皆さんも御存知だと思います。京都の洛中(市内)と洛外(郊外)にある寺社仏閣などの景観だけでなく、祇園祭の山鉾巡行など風俗まで描いた屏風絵です。室町時代後期から江戸時代にかけて何点も制作され、著名な岩佐又兵衛(有岡城主荒木村重の子息)の「舟木本」のほか、国宝になった狩野永徳作の「上杉本」(信長から上杉謙信に贈られた)が代表作としてあります。
あるべき建築物がない?
寺社仏閣の建物は当然のことながら、近衛家など公家や細川家といった守護大名の邸も描かれ、京都の著名な建築物はもれなく描かれていますが、たった一つ、室町時代に最も有名だった建造物が描かれていません。その答えを書くには、先日、NHKで放送された「歴史探偵」という番組に触れなければなりません。「まぼろしの室町巨大タワー」というタイトルでした。室町タワーなんて聞いたこともありません。あまり興味も湧かなかったので、メモも取らずボンヤリと見ていたら、これが面白くてしょうがなく、何度も驚いてしまいました。「何で教えてくれなかったの!?」と学校の先生に抗議したくなりました(笑)。とはいえ、どこの教科書にも載っている話ではなく、社会科の教師も予備校講師も恐らく知らないと思われます。
歴史の闇に埋もれた巨大塔
この巨大なタワーとは、相国寺の七重塔のことで、高さ約109メートルもありました。今も残る東寺の五重塔は56メートルですから、その2倍近いまさに巨大塔です。創建者は室町三代将軍足利義満。あの金閣寺を建てた義満ですが、金閣寺も相国寺の塔頭寺院の一つです。
義満は長年の南北朝の内乱を収めて、南北朝統一という偉業を成し遂げました。これから平穏安寧の時代をつくるという誓いを込めて、この巨大塔を着工完成させたと言われます。しかし、この塔はわずか数年で落雷で焼失し、その後再建されても再度、落雷、もしくは放火説等で喪失し、二度と再建されることなく、歴史の闇に埋もれてしまいました。
現在、京都市内に残る痕跡は、「相国寺七重塔跡」の石碑のみです。それが、番組の最後の方で、あっと驚く展開がありました。それが、最初に述べた「洛中洛外図屛風」です。この図は室町時代の風景を出来る限り再現していますが、当時、超有名だったはずの相国寺七重塔は描かれていません。全体的に京都の市内と市外を高い所から眺めて見た「鳥瞰図」のような描き方をされているのです。さては?
相国寺七重塔からの眺望か?
番組では、山田邦和同志社女子大学教授が、洛中洛外図は、絵師が相国寺七重塔の最上段に登って、そこから見える風景をスケッチして描いたのではないか、と推測するのです。そこで、当時、相国寺七重塔があった遺跡場所辺りからドローンをあげて、高さ109メートル付近から写真撮影を試みてみました。そして、撮影された写真と屏風図をパソコン上で重ね合わせたり、照らし合わせたりした結果、塔の目の前に相国寺の本堂があった関係で、屏風図にも本堂が遠近法で大きく描かれていたり、遠くに金閣寺や嵐山の渡月橋などが図と写真と同じ位置にあったりしたので、絵師が塔に登って、素描していたことがほぼ間違いないことが分かったのです。

このことについて、つまり、相国寺七重塔に関して、今、私の手元にある「国宝へようこそ 洛中洛外図屛風」(NHK出版、2021年10月31日初版)には一切触れられていません。となると、これは大発見であり、新説ではないでしょうか? 私も久しぶりに興奮してしまいました。
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