臣籍降下した11宮家51人

「歴史人」2024年10月号 天皇と皇室の日本史 書評
「歴史人」2024年10月号 天皇と皇室の日本史

 「歴史人」2024年10月号の特集「天皇と皇室の日本史」は大いに勉強になりました。

 日本の歴史=天皇の歴史、と言い換えてもいいぐらいですから、日本史を知るには「天皇史」が欠かせません。ただ、戦国時代から江戸時代にかけては、天皇の権力は失墜して有名無実化しました。第104代後柏原天皇や第105代後奈良天皇のように費用がなくて即位式すら挙行できず、実施できたとしても10年後、20年後といった例があります。それでも、古代史から、「王政復古」した近代に至るまで天皇の影響力は膨大です。

正確になった「天皇史」

 この本には「全126代皇位継承図」から「天皇と皇室の基礎Q&A」に至るまで、天皇に関する基礎知識が網羅されています。戦前の皇国史観から解放されて、戦前ほどタブーがなくなったので、正確な史実が記述されています。

 この中で、私が一番興味を持ったのは、敗戦による財政難から皇統の危機が生まれ、11宮家の「臣籍降下」が決定したことでした。これは、当時日本を占領していたGHQのマッカーサー総司令官の意向を踏まえたものでした。ただし、マッカーサーは天皇制廃止には反対でした。諸説ありますが、マッカーサーは天皇を象徴として国民の紐帯とし、占領軍への日本人の反感を抑える目的があったという説を私は支持します。

 臣籍降下したのは、山階、賀陽、久邇、梨本、朝香、東久邇、竹田、北白川、伏見、閑院、東伏見の11宮51人でした。これらの宮家はどういうものなのかよく知りませんでしたが、この本で、全ての宮家が伏見宮家の系統だということを教えてもらいました。

伏見宮家とは

 では、伏見宮家がどういうものか、というと、南北朝時代の北朝第3代の崇光天皇の栄仁(よしひと)親王(伏見宮)の系統でした。勿論、皇族です。日本史上有名な伏見宮家の皇族として、日清戦争後に台湾に出討した北白川能久親王・陸軍大将(東京・北の丸公園内に銅像が建つ)、陸軍トップの参謀総長を務めた閑院宮載仁(ことひと)親王、海軍トップの軍令部総長を務めた伏見宮博恭(ひろやす)王、戦後直ぐに首相を務めた東久邇稔彦(なるひこ)王、それに、昭和天皇の皇后良子(ながこ)女王の父久邇宮邦彦王らがおります。

 ここに、「親王」と「王」が出て来ますが、どういう違いがあるのでしょうか? それは、天皇の子息は「親王」と呼ばれますが、親王の孫はもう親王とは呼ばれずに、単に「王」と呼ばれるのです。王と言えば、日本史上では、長屋王や以仁王が有名ですね。

今上天皇は閑院宮家

  さて、先程、臣籍降下した宮家は11宮あり、その中に閑院宮もあったことを書きましたが、正確に書きますと、伏見宮邦家親王の親王で、参謀総長も務めた閑院宮載仁親王の子息の春仁王が臣籍降下したということになります。

実は、同じ名称の閑院宮家は、現在の令和の天皇の宮家に当たります。1710年、6代将軍徳川家宣の政治顧問だった新井白石が将来の皇統断絶を危惧して、第113代東山天皇の直仁(なおひと)親王を閑院宮として創設したのでした。

その70年後、第118代後桃園天皇が22歳で崩御したことから、直仁親王(閑院宮)の孫に当たる祐宮(さちのみや)王が10歳で光格天皇(第119代)として即位し、この系統が明治、大正、昭和、そして平成上皇、令和の天皇と続きます。

新井白石には「先見の明」があったわけです。(この項は、「歴史人」には書かれていません。)

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