磯田道史著「豊臣兄弟 天下を獲った処世術」を読んで

磯田道史著「豊臣兄弟 天下を獲った処世術」(文春新書) 書評
磯田道史著「豊臣兄弟 天下を獲った処世術」(文春新書)

 テレビで大人気の歴史学者磯田道史氏は「機を見るに敏」な方とお見受けします。新型コロナが隆盛の頃は「感染症の日本史」(文春新書)を上梓し、「歴史には異説、風説があり、よく分からない」と、読者がモヤモヤとしている頃合いを見計らって、「日本史を暴く」(中公新書)を出版する。勿論、NHK大河ドラマへの目配り、気配りも怠りません。2026年が「豊臣兄弟!」ということで、早速、昨年末に「豊臣兄弟 天下を獲った処世術」(文春新書、2025年12月20日初版)を出版されていました。絶好調です。

 さすがオーセンチックな歴史学者なので、資料・史料の扱い方が手慣れています。とてもトーシローでは思いもつかないような史料・資料を引用され、正史だけでなく、稗史まで目配りされています。さすがです。織田信長の正史と言われる太田牛一著「信長公記」や奈良・興福寺の三代の僧侶が書き継いだ「多聞院日記」だけでなく、竹中重門(竹中半兵衛の子息)著「豊鑑(とよかがみ)」などからも多く引用しております。

逸話に溢れて

 歴史は、何年に誰それが何をした、という無味乾燥に覚えるだけでは何ら面白くも何ともありませんが、その人がどんな境遇で、何でそんなことまでしたのかといった「逸話」を知れば、あまりにも人間臭くて、歴史嫌いの人でも歴史に興味を持つかもしれません。

 その点、この本(「豊臣兄弟」)にはそんな逸話に溢れています。

 例えば、秀吉が名乗った「羽柴」は、織田信長の重臣の丹羽長秀と柴田勝家から取ったことはよく知られていますが、「豊臣」は「君臣豊楽(くんしんほうらく)」でめでたい、ということで、関白になった時に、自ら申請したといいます。私は知りませんでした。

世上する人

 秀吉は、当時の言葉でいう「世上(せじょう)をする」人だった、ということも、本書で知りました。当時の人は、武士でも農民でも、ほとんど「イエ」や「ムラ」に縛られて、狭い小世界で生きていかざるを得ませんでしたが、中には行商人のように、自分の属する小世界から離れて、境を越えて、別世界の人と交流する人もいました。このことを前近代では「世上をする」「世間をする」と呼んだといいます。秀吉の場合、若い頃、生まれ故郷の尾張の中村を離れて、遠江の浜松に行商したり、土地の有力者に庇護されたりしていましたから、まさに「世上の人」だったわけです。

 世上する人にとって、商業的金銭感覚が必要ですが、最も重要な才覚は、「外交」であり、「諜報活動」です。秀吉は若い時に、これらを肌身で習得したお陰で、将来の天下獲りの布石に役立ったと言われます。確かに、天下を獲るには武力だけでなく、外交と諜報活動が最重要ですからね。

 また本書で、興味深かった逸話として、戦国時代の大将の周りを固める「馬廻衆」と呼ばれる旗本の石高です。二百石とか五百石クラスで、これぐらいあれば家で馬を世話できるといいます。戦国時代なら百石あれば何とかなりますが、五十石ではもう馬を飼うことが出来ず、歩きで合戦に行くというのです。私のご先祖様は下級武士で「五石六斗二人扶持」しかありませんでしたから、全くお話になりませんね(苦笑)。走って参戦したことでしょう。

宇多田ヒカルのご先祖さま

 信長から中国(毛利)攻めを命じられた秀吉は、備中高松城を水攻めにした史実は有名ですが、高松城主清水宗治に連絡するのに、水没した高松城まで泳いで渡って戻って来た毛利方の武士に宇多田小四郎という人物がいましたが、この人は、歌手の宇多田ヒカルさんのご先祖様らしいですね。こういう逸話なら若い人でも興味を持つことでしょう。

池田恒興のこと

 もう一つ、感心した逸話に、「小牧・長久手の戦い」で討ちしにした池田恒興のことがあります。池田恒興はフキが繁る原っぱで討ち取られたため、岡山藩の池田家では、江戸時代初めまでフキは食べてはいけなかったそうです。ところが、ある時、ある儒者が「ああ、勝入(しょうにゅう=恒興)公が田んぼの中で討ち死にされなくてよかった。コメが食えなくなるところだった」と言ったそうで、これを聞き及んだ岡山藩主の池田光政は考えを改めてフキを食べるようになったといいます。

 著者の岡山出身の磯田氏のご先祖様はこの池田の家中の人だったそうで、「子孫である私も遠慮なくフキ味噌で一杯やることができるわけです」と自慢気に書いております。ただし、池田家の中のどれくらいの身分か書かれていませんが、AIに聞くと、磯田家は、備前岡山藩の支藩の鴨方藩(二万五千石)の重臣(藩主の教育主任)だったようです。

 この池田恒興ですが、最近になって、明智光秀と秀吉が戦ったという天下分け目の「山崎の戦い」で、秀吉は「中国大返し」で間に合わず、実際には池田恒興の部隊が光秀軍を撃破して勝利を収めたという説が浮上しました。秀吉はこの史実をひた隠しにして、陰で池田恒興の功績を認めて、「清洲会議」に参加させたという説です。これはまだ史実として確定していないようですが、池田藩の子孫である歴史学者の磯田氏が知らないはずはありません。それが本書では全く取り上げていないのです。肯定するにせよ、否定するにせよ、是非とも取り上げてほしかったですね。他にも、読んでいて、「何で書かないのだろう?」と「隔靴掻痒」の部分がありましたが、人気者でお忙しいご身分なのでしょうから、仕方ないかもしれませんね。

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