8月27日(木)はS氏の山名湖別荘滞在2日目、昨年は休館で行けなかった山中湖村の三島由紀夫文学館と、そこから車で30分ほどの河口湖に行くことにしました。
前日は「吉田の火祭り」を見物に行った帰り道、コンビニで缶ビールを買って、別荘で色んな話をしながら酒盛りをしていたら、いつの間にか夜中の零時を過ぎていて、慌てて寝ることにしました。
川口直宜さんのこと
色んな話をしましたが、特に印象的だったのが、二人の共通の「友人知人」である川口直宜さんのことでした。川口さんは、山種美術館の学芸員をなさっていた人で、私はもう30年以上昔、美術担当記者だった時に、日本美術に関する10回の連載記事を彼に執筆してもらったことがありました。美術は「写真」が肝心でしたが、川口さんは山種美術館のコレクションの中でも有名な速水御舟「炎舞」などを取り上げて頂き、写真に関する著作権は問題なくクリア出来たことを覚えています。
川口さんとは何度もお会いし、渋谷のおつなセミナーにも講師として参加して頂いたこともありましたが、プライベートな話は一切したことはありませんでした。そしたら、川口さんは、Sさんの大学の山岳部の2年先輩で、その繋がりで、Sさんは就職の世話になったり、おつなセミナーに参加したりするようになったというのです。
川口さんは、10年ほど前に大量飲酒などが遠因で72歳で脳溢血で亡くなったらしいのですが、若い頃は、大学の山岳部で何度も山で死にかけた話を聞いて驚いてしまいました。
特に大きな事故は、当時の新聞にも大々的に報道された「北アルプス硫黄尾根雪崩遭難事故」(1969年3月)でした。國學院大学山岳部のパーティー8人のうち、5人が雪崩に巻き込まれて死亡する大惨事でした。川口さんは先頭から3番目で登山中で、亡くなった5人は4番目以降の学生でした。川口さんら3人は奇跡的に助かったのです。
川口さんはその後、少なくとも3回は生死に関わる大事故に山で遭っておりましたが、いずれも奇跡的に助かったといいます。外見からそんな冒険家に見えず、随分波瀾万丈な人生を送っていた方だったのです。
Sさんは、富士山に10回以上登頂するなど年間100日以上、登山活動に励み、本人は「大学は山岳部卒業です」と自認しているぐらいですが、一度も大きな事故に遭わなかったそうでした。
三島由紀夫文学館
三島由紀夫文学館は、意外とこぢんまりとした文学館でした。三島はわずか45年の生涯でしたが、膨大な作品を残しているので、もっと資料はあるはずだと思っていたら、館内のビデオを見ていたら、どうやら倉庫があるらしく、ほんの一部しか一般公開されていないことが分かりました。

何で、三島文学館が山名湖にあるのか不思議でしたが、遺族が資料が散逸しないよう何処か公的な場所を探していたところ、ちょうど山中湖村で文学館を作る計画があり、両者の思惑が一致したようです。それに、三島自身も山中湖には何度か訪れたことがあるらしく、遺作の「豊饒の海」などにも山中湖が取り上げられています。
館内では、三島の書斎が再現されていましたが、写真撮影禁止で、ブログに掲載できず、残念でした。よく見ると、小説家なので当然ですが、古典文学全集や谷崎潤一郎全集など文学書ばかりで、東大法学部から大蔵省の官僚になったというのに、法律書や経済書がほとんどありませんでした。

河口湖の印傳館
この後、河口湖に向かいました。私の記憶では河口湖に行くのは生まれて初めてですが、富士五湖の中で面積が一番広い山中湖より、どういうわけか、河口湖の方が有名で、人気ですよね。やたらと外国人観光客が多かったでした。
Sさんは何度も河口湖には訪れたことがあるので、「名所」を案内してくれました。最初は、駐車場近くにあった「印傳館」という土産物屋さんです。別に入店するつもりはなかったのですが、印傳屋については、新聞広告で知っていたので、とにかく入ってみることにしました。
何しろ、印傳屋は、「本能寺の変」が起きた天正10年(1582年)創業です。それで覚えておりました。「甲州印傳」は鹿革を素材にした袋物製品のことで、その技法がインドから伝来したと言われたことから印傳と呼ぶそうです。戦国大名上杉景勝の重臣直江兼続も鎧兜の中で愛用したそうです。

当初は何も買うつもりはなかったのですが、店主と色々話しているうちに、急に財布が欲しくなってしまい、とうとう購入してしまいました。

河口湖を代表する井出家
次に向かったのは、井出醸造店です。江戸中期の1700年頃から続く河口湖を代表する井出家の本家で、この辺りは井出の名前の付いた商店ばかりでした。

中には入りませんでしたが、旧家とあって、狩野派の絵画も所蔵しているそうでした。
北村西望「源泉」
この後、Sさんのお導きで、河口湖の全景が見える見晴らしの良い丘まで歩き、そこから下山して河口湖畔にまで行きました。

山岳部出身のSさんは、健脚で、ご高齢なのに背筋を伸ばしてさっさと歩かれるので、追いついていくのが大変でした(苦笑)。
何か、目的地があるらしく、どんどん先を行かれるので何事かと思ったら、どうもケッタイな彫刻がありました。それは、何と、北村西望の「源泉」という作品でした。

北村西望(1884〜1987年、102歳没)といえば、長崎原爆の「長崎平和祈念像」を作った文化勲章も受章した日本を代表する彫刻家です。「源泉」の看板によると、北村西望先生は何と、101歳で山名湖を訪れて、2年半掛けて、この源泉像を完成させたといいます。西望は満102歳で亡くなっていますから、この101歳という年は数え年と思われますが、最晩年の作品であることは間違いないでしょう。
いやあ、凄い作品ですが、凄い人がいたものです。
岡田紅陽の富士山
河口湖から山名湖のSさんの別荘に戻り、そこでまたSさんの手料理をご馳走になりました。いやあ、魯山人より美味かった。本当です(笑)。
食後、また色んな話をしましたが、岡田紅陽(1895〜1972年)という富士山を中心に写真を撮っていた風景写真家を教えてもらいました。

何しろ、横山大観や川合玉堂といった名だたる巨匠が、この岡田紅陽が撮った写真を基に富士山を描いていたといいます。
それだけでありません。表が新渡戸稲造の5000円札紙幣と表が野口英世の1000円札紙幣の裏側の富士山の写真は、いずれも岡田紅陽が撮影した富士山だったのです。
いやはや、長年生きておりますが、まだまだ知らないことばかりです。


コメント