先日放送された歴史番組「英雄たちの選択」の「卑怯者と呼ばれて〜信長を裏切った男 荒木村重」は昨年11月の再放送らしいのですが、面白く拝見しました。何しろ、摂津「有岡城」(現兵庫県伊丹市)を根拠地とする戦国の大名・荒木村重(1535〜86年)の見方が変わりました。「卑怯な裏切り者」というレッテルを貼ったのは、江戸時代の軍記物で、見方を変えれば、戦国武将らしい人間臭い大名だったと言えなくもないからです。
番組の最後で、司会者で歴史学者の磯田さんが「われわれ歴史家はどうしても、勝者側の薩長史観や織豊徳史観に捉えられがちだが、敗者側からの視点も大切で、負けた荒木村重や明智光秀らから見た畿内史観も取り上げなければいけませんね」といった趣旨の発言をしておりましたが、その通りだと思いました。そもそも私は、「明治維新」ではなく、「薩長武力革命」だと思っておりますし、根っからの幕臣派ですからね(笑)。戦国時代も、勝者の織田信長や豊臣秀吉や徳川家康側から見た事案が「歴史」となっていますが、負けた敗者側からの視点も重要なはずです。ただし、敗者側は一族郎党ともに皆殺しにされたり、手紙等も焼却されたりしたでしょうから、資料が残っていないという難点もありますが。
荒木村重が信長に謀反を起こした理由は諸説あるようですが、それは、ここでは置いときまして、信長軍に囲まれた村重は、わずかの手勢でこっそり有岡城を抜け出して、尼崎城に移り、有岡城に残っていた一族郎党500人とも600人ともいわれる身内と家臣を信長によって皆殺しにされています。これが「卑怯者」と呼ばれる所以ではありますが、村重自身は尼崎城に半年も籠って、毛利や本願寺衆などに援軍を求めたりして再起を図っていました。大名として何としてでも「生き残る」ことを最優先したのでした。最後は毛利氏に亡命しました。
荒木村重は、中級武士の出自ながら下剋上で摂津の大名にのし上がった人物ですが、当時の武将の教養と言われた和歌や茶を嗜み、「利休十哲」の一人とされています。信長が死に追いやれた「本能寺の変」後も生き延び、道薫と名乗って、津田宗久の茶会にも参加し、天正14年(1586年)に堺で亡くなっています。享年52。
本能寺の変の黒幕は村重か?
本能寺の変を起こした明智光秀と荒木村重は、姻戚関係(村重の嫡男村次の正室が光秀の長女お岸)だったことから、光秀が村重から影響を受けたことは間違いないようです。
例えば、有岡城の女性や子どもに至るまで皆殺しにする信長の残忍さを目の当たりにした光秀は「次は自分たちの番かもしれない」と疑心暗鬼に駆られたかもしれませんし、村重から信長暗殺を唆された可能性も完璧に否定できないようです。本能寺の変も不可解な事件です。前関白の近衛前久ら黒幕説が色々ありますが、その中に荒木村重説も入れても良さそうです。
浮世絵の創始者・岩佐又兵衛と村重
番組では全く取り上げていませんでしたが、皆殺しにされた荒木村重の眷属の中でかろうじて生き残った一人が、後に「浮世絵の創始者」とも呼ばれる岩佐又兵衛(1578〜1650年)です。村重の末子で、乳母に救い出されて石山本願寺で保護されました。私はどちらかと言えば、村重よりも、この人の方に興味がありますね。今でも上演される歌舞伎の「傾城反魂香」(吃又)のモデルになった人物でもあります。
岩佐又兵衛には、「洛中洛外図屏風」などの代表作がありますが、それは見事です。「教養人」荒木村重の血をしっかりと継いでいます。

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