私は「幕末の志士」とか「明治の元勲」とか呼ばれる偉人の中で、大久保利通(1830〜78年、47歳没)はあまり好きになれませんでした。盟友西郷隆盛を自決に追い込んだ張本人であり、薩摩藩の国父・島津久光を裏切って版籍奉還を断行した合理主義の塊のような冷酷無比の人間だと思っていたからです。
そもそも、私自身は「幕臣派」ですから(笑)、薩長土肥の連中が嫌いです。自分達に都合の良いように、天皇をお飾りにして権力を奪取した革命政権を作っておきながら、「明治維新」などと、さも新しく改良したように見せかけ、どうせ、仕事そっちのけで、毎晩、新橋や赤坂の芸者と遊び歩いていた連中だと思い込んでおりました。
しかし、それは誤りだったと気がつかされたのは4年前、瀧井一博著「大久保利通 『知』を結ぶ指導者」(新潮選書、2022年7月25日初版)を読んだことがきっかけでした。この本に関しては、渓流斎ブログに書評「明治の元勲は偉大だった」(2022年11月11日付)を書きましたが、特に、大久保利通は単なる独裁者だと私自身が誤解していた点については「実は、彼は気配り、心配りがある人で、事前の根回しをし、うまくいかないと心を痛めたり、(手紙の中で)落涙したり、辞表を提出したりする人間的側面があったことです。勿論、根回しというのは、政治的駆け引きであり、目的のためには手段を選ばない冷徹さがありますが、それは合理主義でもあり、嫌らしい権謀家の大久保らしいと言えば、大久保らしいのです」などと私は書いています。
もう一つの書評「大久保さん、ごめんなさい」(2022年11月15日付)では、当時、不平士族と呼ばれた暗殺犯たちの誤解にも触れています。このブログの中で、私は「大久保は、暗殺される当日、早朝(何と6時!)に、麹町の自宅(現ベルギー大使館)で、福島県令(今の知事)の山吉盛典と会談しています。当時の大久保は、自ら率先してつくった内務省の大臣に当たる内務卿で、山吉とは福島県安積疏水事業に関する打ち合わせなどをしていたのです。この事業とは、明治になって職を失った士族や華族らのための公共事業で、いわゆる雇用対策事業です。不平武士らは、これら雇用創出の公共事業のことを知らず、大久保のことを誤解していたことになります」などと書いております。
清廉潔白だった大久保
大久保は、当時から誤解されやすいタイプだったのでしょう。薩摩藩の下級武士の成り上がりのくせに、「私腹ばかり肥やしやがって!」というのが最大の大久保に対する誤解だったと思います。
確かに、晩年の大久保利通は、国家権力の中枢である内務省のトップである内務卿を務め、現在の価格で約3億円の年収を得ていたと言われます。明治10年ではまだ国会も開設されておらず、首相という役職もありませんでしたから、実質上、国家の最高責任者でしたから、それぐらいの報酬は相応しかったかもしれません。
しかし、大久保は決して私腹を肥やしていたわけではありませんでした。何故なら、何と約4億円もの借金を残していたからです。それらは、自らのポケットマネーから失業対策の公共事業に投資したり、駒場農学校(現東大農学部)や地元鹿児島県の学校(教育機関)の設立のために寄附したりしていたからだというのです。(これはEテレの「偉人の年収 How much?」という番組でやっておりました)
日本の歴史上、多くの偉人を輩出しておりますが、私心のない、これほど立派な人物は大久保利通以外見当たらないのではないでしょうか。

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