「偶然の一致」に驚き 石川達三「生きている兵隊」、マニラ市街戦、李香蘭…

山口淑子・藤原作弥著「李香蘭 私の半生」(新潮文庫) 歴史
山口淑子・藤原作弥著「李香蘭 私の半生」(新潮文庫)

 1月19日(月)、東京・新宿の「魚真」という居酒屋で、元会社の仲間3人で新年会を決行しました。「昨年、忘年会の日程が合わなかったから」という理由なのですが、お酒が飲めれば、理由は何でもいいんです(笑)。取り止めもない話をしましたが、翌日になって、驚くべき「偶然の一致」が続きました。その時、話していたことが現実になって再現したのです。どういうことなのか、と言いますと、ま、聞いてくださいな。

NHK「映像の世紀」

 3人とも、興味がある共通の話題と言えば、近現代史と国際政治経済辺りです。その中で、Y君が、何の話のついでだったのか、石川達三の「生きている兵隊」の話をしました。「皇軍」と呼ばれた帝国陸軍兵士が、中国の民間人を殺めていたことを、石川達三が「従軍記者」として前線で兵士に聞いたことを基にして小説化したものです。南京虐殺のことも触れていて、東京裁判でも戦勝国側が「証拠」として取り上げたとかいった話でした。

 そしたら、19日にNHKで放送された「映像の世紀 レンズの向こうの戦争 ジャーナリスト 沈黙との闘い」をビデオに取ってあったのでその翌日に見てみたら、この石川達三の小説が、雑誌「中央公論」に伏字の形で掲載されながらも、発禁処分になったことを取り上げていたのです。「ありゃあ、昨日、Y君が話していた石川達三じゃないか!」と思ったのです。

李香蘭のボディガード児玉英水さん

 もう一つは、M君がかつて、マニラ特派員を3年間務めたことがあるというので、終戦間際のマニラ市街戦で10万人の市民が戦闘に巻き込まれて亡くなったとか、東條英機に睨まれたのか、皇道派の山下奉文大将がルソン島第14方面軍司令官として左遷され、戦後、現地で軍事裁判にかけられて処刑されたといった話をしました。

 そしたら、その翌日、私が藤原作弥氏の「李香蘭 私の半生」を読んでいたら、ほんの少しですが、ちょうど、このマニラの話が出て来たので驚いてしまいました。

 李香蘭(山口淑子、1920〜2014年)が1941年2月21日(当時は紀元節)、東京・有楽町の日劇(現マリオン)で初の「来日公演」を開催した際、劇場の周りを群衆が七回り半するほど大混雑になり、警察まで出動しました。この少し前から李香蘭のボディガードに指名されていたのが東宝の文芸部に前年に入社したばかりの児玉英水(こだま・ひでみ、1914〜45年)という人で、群衆を掻き分けて、楽屋口まで、李香蘭を連れて行きます。

 当初、 ぶっきらぼうで頑な児玉さんに対してよく思わなかった李香蘭ですが、次第にその理由が分かってきます。児玉さんは、ソ連軍に大敗したノモンハン事件に従軍し、かろうじて生き残った人でした。また、彼は演劇青年で、自ら書いた、故郷の宮崎県の高千穂高原の神話に題材を取ったレビューを日劇で公演する予定だったのに、急に満洲から来た娘の歌謡公演に取って変わられ、しかもその娘の「お守り役」にまで回された、ということで機嫌を損ねていたのです。

 でも、児玉さんは無口ながら、九州男児らしく色が浅黒く、長身でハンサムな青年です。二人は次第に打ち解けるようになり、児玉英水さんはその後も、李香蘭が「来日」する度にボディガードを務めたり、食事も一緒にしたりしますが、1944年頃、陸軍報道班員としてマニラに赴任します。45年1月、「アイ・シャル・リターン」のマッカーサーが戻って来て、マニラで激戦になろうとする中、この児玉さんは、最後まで海軍の陸戦隊と共に、日本人の民間人を帰国させる手筈を整え、本人も帰国しようと思えば帰国出来たのに、最後までマニラに残って、同年3月頃、戦死したらしいというのです(異説もあり)。行年31歳。

 わずか80年前の話ですが、私は知らなかったし、ほとんど忘れられた話でした。「偶然の一致」でマニラの話が出て来たので、「僕のことを忘れないでほしい」という児玉英水氏の霊が出て来たのかと思いました。

 ちょっと必要に迫られて、この藤原作弥氏の「李香蘭 私の半生」(新潮文庫)を読み始めましたが、この本はお勧めです。李香蘭が、松岡洋右の長男松岡謙一郎と結婚寸前だったことをこの本で初めて知りました。松岡謙一郎氏は、東京帝大法学部を卒業して、何と同盟通信に入社していたのです。同盟通信社は、戦中の国策通信社で、戦後は、時事通信、共同通信、電通として再出発します。

 松岡謙一郎氏は戦後、この3社のいずれにも入社せず、岡村ニ一・東京タイムズ社長が新設したサン写真新聞社に入り、その後、テレビ局に転じ、テレビ朝日の副社長などまで務めます。

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