7月12日(土)、東京・早稲田大学で開催された第68回諜報研究会に参加して来ました。その前に、買ったばかりの自宅のプリンタが不調で、事前にこのセミナーの資料をプリントアウトしようとしたら、動かないのです。よく見たら、プリンタに「ファームウエアのアップデートをしてください」と表示されていました。ファームウエアってなんじゃらほい?てな感じで右往左往しました。何しろ、プリンタにはしっかりした紙のマニュアルが付いていないのでお手上げです。仕方がないので、パソコンで検索したら、プリンタのファームウエアのアップデート方法が出てきました。それに沿って実行したら、ようやくプリントアウトが出来ました。私はやはりIT機器が嫌いです。精神衛生上、良くないですよ。
失礼しました。第68回諜報研究会の話でした。2人の報告者が登壇されましたが、共通テーマは「結局は米日インテリジェンス体制への屈服か―戦後80年の日本の反体制運動」でした。主宰者の皆さんにはこれまた失礼ですが、2人の御報告にはそれほど共通点がなく、無理やりくっつけた感がありました(苦笑)。別に問題はなく、事務局の方々が散々苦労して講師の方を選出して、長期に渡って開催しているというのに、配慮に欠ける発言になってしまいました。お詫びに、最後にフォローするお話を披露致します。
「松本清張の歴史観&権力観について」
最初の報告者は、作家・経済学者、元大阪市立大学経済学研究所教授の中尾茂夫氏で、演題は「松本清張の歴史観&権力観について」でした。歴史小説家司馬遼太郎と、ミステリー作家松本清張を比較し、司馬遼太郎の場合、「司馬史観」として高く評価されているというのに、松本清張の歴史観は、ミステリーとしていわば格下のように見られがちです。しかし、実は、清張の歴史観の方が遥かに優れているのではないかというのが中尾氏の見立てでした(少なくとも私はそう理解しました)。

例えば、司馬遼太郎の代表作に「竜馬がゆく」があります。軍隊経験があり、ファシズムを煽動した軍人に嫌悪感があった司馬が戦後、爽やかな日本人を探して見つけたのが坂本龍馬でした。脱藩して自由奔放なイメージの龍馬が、地方から都会に出た若者たちの気分を鼓舞し、多くの読者に人気を博したのではないか、と中尾氏は分析していました。その半面、「竜馬がゆく」はあくまでもフィクションであり、一介の脱藩浪人である龍馬がどこで資金を調達出来たのかといった重要な視点に欠けているといった指摘もありました。最近では、武器商人のグラバーや日本の植民地化を狙う英国のパークス駐日公使らが龍馬に資金援助して彼を利用していたという説もあります。また、有名な「船中八策」も龍馬の独自の案ではなく、明治になって創作されたのではないかという説もあります。坂本龍馬の名前が歴史の教科書から消えたりして、彼に対する評価が変わる動きもあるようです。
これに対して、松本清張の場合、古代史から近現代史まで2000年間の歴史を一括して振り返り、卑弥呼と近衛文麿との共通点まで語ってしまう。中尾氏は「こんな人はいない」というのです。ファシズムに関しては、清張は構造分析に向かい、下からの草の根ファシズムに注目したといいます。例えば、二・二六事件では、青年将校らはクーデター後、何の戦略も構想もなかったことで、決起軍から反乱軍に転落し、「昭和維新」が第二の明治維新になれなかった。それは、幕末の西郷隆盛や大久保利通、岩倉具視に匹敵するような人材が不在で、参謀役が北一輝ではあまりにも役不足だったという清張の指摘は大いに評価するべきだと話しておりました。
実を言いますと、私は、中尾氏の著作「情報敗戦」(筑摩選書)を拝読していなかったので、お話をお伺いしていて、どこまでが司馬遼や清張の主張で、どこまでが中尾氏の主張なのか、分からなくなってしまったことを正直に告白しておきます。ですから、先述した「聞き書き」は、意味が不明で間違っているかもしれません(苦笑)。
個人的ながら、私自身は、司馬遼太郎さんにも、松本清張さんにも生前、お目に掛かってインタビューしたことがあるんですよね、これは単なる自慢話です。勿論、超大物ですから、単独ではなく、いわゆる「囲み」といって数社の記者が囲んでお話を伺った程度ですが、結構、肌が触れるほど間近な至近距離でお二人の御尊顔を拝見しました。今のようなスマホ時代でしたら、「証拠写真」を撮ることが出来たのですが、残念です(笑)。
「成田の乱」
次に登壇されたのは、ジャーナリストで元日経記者の牧久氏で、演題は「成田の乱」でした。牧さんが今年1月に出版された「成田の乱」(日本経済新聞出版)のお話ですが、この渓流斎ブログで、この本に関してましては、何度か取り上げさせて頂いており、内容が重なりますので、ズルして、そんまんま「引用」させて頂きます。牧氏のレジュメとともにお読みください(笑)。

成田国際空港建設反対を巡る「成田闘争」、もしくは「三里塚闘争」は13年続き、反対派学生と機動隊員と合わせて8人もの死者を出した「戦後最大の騒乱」だというのに、「昭和100年」「戦後80年」に当たる今年(2025年)、この事件は、それほど注目されたり、回顧されたりしません。成田空港は既に年間4000万人にも利用され、もう後戻りすることが出来ないからかもしれません。
そしたら、実は、今でも、空港建設予定地に反対小屋を作り、農地を売らずにらっきょうを育てたりして、反対運動を続けている人々がいるというのです。1965年11月、反対派のリーダー戸村一作による「キリスト者新空港建設設置反対連盟」が結成されて今年でちょうど60年。戸村一作の意志は、子ども世代から、今では孫世代にまで引き継がれているというのです。中には京都から来た反対派学生が、成田の女性、もしくは男性と結婚して、その子孫が運動を引き継いでいるケースもあるそうです。凄い執念です。
研究会の登録者が2500人!
第68回諜報研究会が終わった後、珍しく、講師の牧久氏を囲んで、近くの居酒屋で懇親会が開かれ、8人も参加しました。この時、会を主宰するインテリジェンス研究所の山本武利理事長が、研究会のメーリングリストの登録者が2500人近くになったことを披露しました。つまり、毎回、研究会が開かれる度に、2500人もの人に「案内状」を送っていることになります。凄い数ですね!(これには、毎回、メール送付をして、「縁の下の力持ち」として支えている正田浩由事務局長の働きがあります)
私は、途中、病欠を挟んでこの研究会には第1回から参加しておりますが、会場参加は多くても40人程度、オンライン参加も多くて60人程度でしたので、2500人とは本当に吃驚しました。結構、皆さん、関心があるんですね。嬉しくなりました。
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