久しぶりに感動的な名作に巡り合いました。ノンフィクション作家斎藤充功著「消された外交官 宮川舩夫(みやかわ・ふなお)」(小学館新書、2025年6月7日初版)という本です。拙ブログを長年お読みの方でしたら、お分かりだと思いますが、著者の斎藤充功氏は小生の年長の友人と言いますか、酒呑み友達(笑)で、昨秋お会いした時、この外交官宮川舩夫の本を翌年に出版する話は伺っておりました。有言実行の人です。
この「友人」斎藤充功氏には大変申し訳ないのですが、正直、実はそれ程、期待しておりませんでした。何故かと言いますと、外交官の宮川舩夫と言われても、歴史の教科書に載っているわけでもなく、誰も知らないからです。恐らく、近現代史専門の学者さんですら、知る人は多くないと思います。
日露外交史に欠かせない重要人物
そしたら、読み進めていくうちに、「こんな凄い歴史上の人物はいない」から、「外交官宮川舩夫を歴史の教科書に取り上げない学者は間違っている」といった確信にまで変わっていったのです。
その理由は、この本を読んだ皆さんでしたら、全員から賛同して頂けると思います。それほど、日本とロシア(ソ連)との外交史に欠かせないほど重要な役割を果たしたキーパーソンだったからです。
ノン・キャリア外交官
何処が凄い人なのか? という疑問にお答えするには、簡単に宮川舩夫の略歴を振り返なければなりません。宮川は明治23年(1890年)、山形県横山村(現・大石田町)生まれ。大石田は、かの松尾芭蕉が「五月雨を あつめて早し 最上川」と詠んだ地としても知られています。父直人は地元熊野神社の神主でしたが、舩夫が5歳の時に亡くなります。その後、母方の親戚を頼って上京し、1909年、東京外国語学校本科露語科に進学、1911年、外務省留学試験に合格し、当時のロシアの首都サンクト・ペテルブルク大学に留学し、1914年、日本大使館の書記生になります。将来、大使になるには、日本に帰国し、高等文官試験に合格しなければなりませんが、第1次世界大戦とロシア革命という激動の荒波に飲まれ、業務多忙で結局、帰国して受験すら出来ず、いわゆるノン・キャリア外交官の道を進むことになります。宮川は語学の天才で、特にロシア語通訳に関してはいつも引っ張りだこで、上司からいいように扱われて受験する機会を奪われたというのが、実情でした。
松岡洋右外相の隣に宮川舩夫の姿が
その通り、日露の近現代史に残る重要な会議や条約締結などの場には必ず、通訳として宮川舩夫の姿がありました。例えば、1941年4月13日、モスクワのクレムリンで日ソ中立条約が締結され、その署名式が行われますが、スターリンが見守り、松岡洋右外相が署名調印する中、そのすぐ側で補佐する宮川舩夫の姿がありました。宮川は単なる通訳ではなく、その前にモロトフ首相兼外相ら事務方との事前折衝にも立ち会った外交官でもありました。しかも、単なる外交官ではなく、対ソ連の情報収集の最前線に立つインテリジェンス・オフィサーでもあったのです。

死んでも死にきれず、無念
宮川舩夫は1944年5月、ロシア人が多く居留する満洲国ハルビンの総領事に任命されますが、翌年、日本の敗戦で沿海州ジャリコーヴォで行われたソ連との停戦交渉(1945年8月19日)での通訳として参加します(日本側代表は、秦彦三郎関東軍総参謀長と瀬島龍三関東軍参謀)。同年9月24日、ハルビンでソ連軍により逮捕、収監され、数カ所の監獄に移送され、最期は、1950年3月29日、モスクワ郊外の悪名高いレフォルトヴォ監獄で、過酷な環境と栄養失調などがもとで獄死します。行年59歳。しかし、ソ連当局は彼の死亡を隠し続け、宮川の妻芳子さんと4人の息子の家族に彼の死亡が知らされたのがその7年後の1957年12月のことでした。絶望の底に突き落とされた宮川舩夫もさぞかし、死んでも死にきれず、無念だったことでしょう。
何故、不逮捕特権の外交官が拘禁?
外交官なら不逮捕特権のある宮川舩夫が何故、抑留、拘禁までされたのか? その素朴な疑問の解明と宮川舩夫の無念を晴らしたくて立ち上がったのが、この本を著したノンフィクション作家の斎藤充功氏でした。宮川の妻芳子さんを始め、4人の子息ー長男渉(わたる=東大法学部卒業後、外務省に入省し、フィンランド大使などを務める)、次男浩(東大法学部を卒業後、官営富岡製糸場を合併した製糸会社片倉工業に入社し、専務取締役などを歴任)、三男浹(とおる=東大大学院物理学博士課程単位取得満期退学を経て防衛大学校教授など)、四男淳(東大文学部美術史学科卒後、NHK入局、退局後、美術評論家)ーの各氏は既に全員、鬼籍に入っておりました。
知り過ぎた男
しかし、著者の斎藤氏は執念の人です。2023年、宮川舩夫の生地山形県大石田町を訪れ、宮川家の本家で舩夫の兄に当たる儀(ただし)さんの孫の久氏の奥さん淳美さんや、舩夫の孫を探し当てたりして、残された舩夫の手紙や「遺書」や資料、三男浹氏が書き残した「宮川家の百年」などを参照し、そして何よりも貴重な写真までお借りしてこの本の執筆に漕ぎ着けました。語弊がある言い方かもしれませんが、斎藤氏は金鉱を掘り当てた感じで、歴史に埋もれて忘れられてしまった外交官を発掘した貢献者だと言っても良いでしょう。この本は斎藤氏しか書けない作品です。
とてつもなく優秀だった外交官宮川舩夫は、ソ連当局にとって、恐らく「知り過ぎた男」であり、スターリンやモロトフにとって、彼を生かしておくわけにはいかなかった、ということなのでしょう。この本は涙なしでは読めません。今年は昭和100年、戦後80年の節目の年です。この機会に皆さんも是非この本を手に取って読んでみたら如何でしょうか。
コメント
44歳で早逝された伝説的な美術評論家、宮川淳氏はこの方の御子息だったのですね。初めて知りました。
大鹿様 いつもコメント有難う御座います。
はい、その通りです。宮川淳氏が44歳で早逝されたことをご存知だということは、この斎藤充功氏の「消された外交官」をお読みくださったということなのでしょうか? 斎藤充功と小学館に代わり御礼申し上げます(笑)。今、ウィキペディアの宮川淳さんの項を見たら、「外交官である父」と書かれていても、それが「宮川舩夫」だとは書かれていません。一人でも多くの人に、宮川舩夫さんのことを知ってもらいたいですね。
いや『消された外交官』はまだ読んでおりません。すみません。貴ブログの「四男淳(東大文学部美術史学科卒後、NHK入局、退局後、美術評論家)」という記述から、ひょっとしてあの宮川淳氏? と思ってウィキペディアを調べた次第です。宮川氏の名前は、学生時代に背伸びして読んでいた青土社の「現代思想」誌で蓮實某氏の名前とともによく目にしていました。