会社の昼休み、時間があればほぼ欠かさず毎日のようにお参りしているのが、東銀座の出版社マガジンハウスの真横にある宝珠稲荷神社です。年を重ねると達観するので、人生上の悩みが消えるのかと思っていましたが、益々増えるばかりです。同時に年を重ねると信心深くなりますから、神社のお参りは習慣化してしまうのです。
何故、この宝珠稲荷神社にしたかと言いますと、会社から一番近い神社だったからです。ですから、当初は、ここは徳川家康、秀忠、家光と三代将軍に仕えた重臣板倉重昌(三河深溝=ふこうず=藩主)の江戸屋敷があった所で、この板倉重昌(1588~1638年)がまつられていることさえ知りませんでした。この神社は、もともと板倉家の家内安全、火除け祈願の祭神をまつっていたようです。重昌は初代京都所司代を務めた板倉勝重の次男です(長男重宗は、板倉家2代目を継ぎ、京都所司代を34年間も務めた)。寛永14年(1637年)の島原の乱で、幕府側の上使(総大将)となり一揆鎮圧に当たりましたが、功を焦って前線で討死しました。行年50歳。
鎮圧に失敗しただけでなく、この時、幕府軍で4000人もの大損害を出したと言われています。板倉重昌本人は、原城に突撃を敢行した際、一揆勢の鉄砲の名手・三会村金作(小西行長=関ヶ原の戦いで西軍につき、戦後処刑=の本家臣駒木根友房)からの銃弾を眉間に受けて戦死しました。
実は、この宝珠稲荷神社のことは以前に少し書いたことがありますので、この辺にして、本日は、島原の乱(1637~38年)のことを書きます。現在の教科書では、島原の乱ではなく、「島原・天草一揆」と訂正されたようですね。かつては、16歳の天草四郎時貞を総大将にしたキリシタンの反乱という扱い方でしたが、最近では、本来の石高を大幅に上回る重税に苦しむ農民の一揆と禁教に反発したキリシタンが合流した大一揆の方が正確だと判断されました。一揆も島原だけでなく少し離れた天草まで広範囲渡ったからです。諸説ありますが、一揆側の戦死者は3万5000人、幕府側の戦死者も1万5000人に上ったといわれているので、相当な「内戦」です。
当時の島原藩主松倉勝家は、乱の責任を取らされて一揆平定後、斬首の刑に処せられます。行年41歳。島原藩にはこの後、高力家が移封されます。天草は、関ヶ原の戦いで功があった唐津藩の飛び地領でした。藩主寺沢堅高に対する処分は出仕停止程度で軽かったのですが、天草領4万石を没収されたことが尾を引き、一揆の10年後に寺沢堅高自身は自害しています。行年38歳。堅高に嗣子がなく、寺沢家は改易、大久保家が移封されます。
三代将軍家光の治世です。島原・天草一揆を鎮圧したのは、板倉重昌に代わって総大将になった松平信綱(1596~1662年、武蔵忍藩主)でした。彼は、若き頃、将軍家光の小姓になったことをきっかけに出世街道を駈け上った人物です。松平信綱は、オランダ船に対して、原城に立てこもる一揆軍に大砲を撃つように要請し、これが一揆軍の戦意喪失に繋がったと言われています。松平信綱は、伊豆守の官職があることから、「知恵伊豆」(知恵が出ず)の異名を持ち、それほど聡明で戦略家だったのです。松平信綱は、一揆を平定した功で、忍藩3万石から川越藩6万石に加増されます。
松平信綱は、川越藩主になると、川越と江戸を結ぶ川越街道を整備したり、玉川上水や野火止用水の開削したりして、藩の殖産興業に努めます。また、幕閣として、キリシタンの取締りを強化して旧教のポルトガル人を追放をする一方、新教のオランダ人は長崎の出島に隔離する「鎖国」政策を推進します。
島原・天草一揆は、江戸幕府の外交のターニングポイントになったのです。
ところで、「宝珠稲荷神社」→「板倉重昌」→「島原・天草一揆」と連想出来る人は、今の日本人は皆無に近いことでしょう。それなら、島原・天草一揆を勉強して、総大将で戦死した板倉重昌のことを知り、その板倉重昌がまつられている宝珠稲荷神社のことを知ってもらえれば、この記事を書いた甲斐があります。
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