人生の目的や意味や意義が「生き延びること」だとしたら、「武」よりも、「文」の方が大きな力を発揮するものだということがよ~く分かりました。先日、NHKBSで放送された「英雄たちの選択 スペシャル 日本史サバイバル! 近衛家と細川家の戦略」を見ての感想です。
番組は、今から1300年以上昔の「大化の改新」の藤原鎌足以来、天皇と外戚関係を築いて藤原道長の時代に公家の頂点を極めた藤原氏の末裔である「近衛家」と、室町幕府の管領という武家の名門で、戦国時代も巧みに生き抜いた「細川家」が、いかに乱世を切り抜けて、現代まで「家」を存続させることができたのか、その生き残り戦略を両家に残る秘宝を手掛かりに解明していくというものでした。近衛家は昭和に近衛文麿が首相に就任し、細川家は平成に細川護煕を首相に輩出するなど、両家は、いまだに国家の中枢として存在感を示しています。
ナンバー2の地位
両家に共通する点は、トップではなくナンバー2の地位にあったということでした。近衛家は言わずもがなですが、細川家は足利将軍のナンバー2として政権を支え、その後は織田信長や豊臣秀吉、徳川家康に仕えることを選択します。トップになろうと出しゃばったりしません。トップは厳しい。信長の織田家にせよ、秀吉の豊臣家にせよ、少なくともトップの嫡男直系は滅亡しましたからね。
「武」より「文」
そして、両家とも存続の危機を救ったのは、「武」ではなく、むしろ「文」だったということです。近衛家の場合は、藤原道長が残した日記「御堂関白記」でした。道長はかなりマニアックな記録魔で、他の公家を手懐けるための進物リストの一覧や自邸で会合を開いた際、出席した人、欠席した人、呼ばなくても来た人の名前まで事細かく記載していたのです。
後世の近衛家にとって最も役立ったのは、道長が微細に記述していた宮中行事です。いわゆる有職故実のしきたりですから、行事を仕切る摂関家の必須情報であり、その権威の裏付けにもなっていたのです。
細川家の場合、キーパースンは細川藤孝(幽斎)です。諸説ありますが、天文3年(1534年)、三淵晴員(三淵氏は清和源氏足利氏の庶流)を父、清原宣賢の娘(智慶院)を母として京都で生まれ、12代将軍足利義晴の近臣細川晴広の養子になった人でした。機を見て敏な人です。明智光秀の盟友(実際は、光秀の近畿方面軍の寄騎=家臣)で、嫡男の忠興と明智の娘お玉(細川ガラシャ)と婚姻関係まで結びましたが、本能寺の変後は、その光秀を見捨てて秀吉側に付きました。関ヶ原の戦いの前哨戦では、家康側に付き、丹後田辺城に籠城しましたが、「古今伝授」を授かった細川幽斎が亡くなって、その秘伝が絶えることを恐れた朝廷が勅使を派遣して幽斎を保護したのでした。古今伝授とは古今和歌集の読み方や解釈の仕方の秘伝のことで、清少納言を輩出した清原家の流れを汲む母親の影響で、幽斎は幼い頃から武芸だけでなく、和歌などの文学や書、華道、茶道などの文化に通じてきました。結局、この「文」が細川家の命を救うことになったのです。
陽明文庫と永青文庫
近衛家には歴代の秘宝を納める「陽明文庫」が京都市右京区にあります。一方、肥後熊本藩主だった細川家には、江戸下屋敷があった東京都文京区に「永青文庫」があり、美術品や資料・史料などが納められています。(この他、熊本大学や熊本県立美術館にも)
近衛家と細川家は親戚
実は、この近衛と細川両家は、縁戚関係だったのです。現在の近衛家第32代当主近衛忠輝氏は、旧肥後熊本藩細川侯爵家の細川護貞と温子夫人(近衛文麿の次女)の次男として生まれました(兄は細川護熙第79代内閣総理大臣)。近衛文麿の長男文隆がシベリア抑留で死去し、近衛家当主が不在となったため、1965年、忠輝氏が母親の実家である近衛家の養子になったのです。
現在の近衛家当主と細川家当主はもともと兄弟ですから、よく似ています。華麗なる一族はこうして繋がっているのだという見本みたいなものです。
コメント