隠田の行者

池田仲博侯爵の名簿(昭和14年5月1日調の「華族名簿」から) 歴史
池田仲博侯爵の名簿(昭和14年5月1日調の「華族名簿」から)

 《渓流斎日乗》2024年4月16日付記事「東郷神社の由来」の写真キャプションに「原宿隠田の池田邸」の説明が書かれています。鳥取池田家の池田仲博侯が大正6年(1917年)、3万8000坪の敷地に部屋数53、庭2000坪の邸宅を建て、敷地内に200軒の貸家もあったことなどが書かれています。また東郷神社を建立するために、神社と水交会に計1万6000坪譲ったことも書かれています。(「毎日グラフ」 1988年3月6日号)

日本のラスプーチン、飯野吉三郎

 私が気になったのは、この原宿隠田(おんでん)です。直ぐに「日本のラスプーチン」と呼ばれた「隠田の行者」こと飯野吉三郎(1867~1944年)のことを思い起こしたからです。もしかしたら、この隠田の行者も池田候邸の敷地内の200軒の貸家の一つに住んでいたのかもしれません。

 飯野吉三郎といっても、今では知る人はわずかでしょう。平凡社「改訂新版 世界大百科事典」には以下の通り書かれています。

明治・大正期の神道行者。通称穏田の行者。岐阜県出身。東京渋谷穏田に住み,祈禱,予言で信者を集めた。予言を通じて山県有朋伊藤博文清浦奎吾らの知遇を得,政財界の上層部に信者をもち,隠然たる勢力をもった。また華族女学校の創立者で〈明治の紫式部〉と呼ばれた下田歌子と結んで皇室にも影響を及ぼし,皇太子の外遊問題にも介入して〈日本のラスプーチン〉とも呼ばれた。1925年詐欺汚職事件に関係して失脚した。

平凡社「改訂新版 世界大百科事典」より

 飯野吉三郎は、奈良時代に孝謙天皇(後に称徳天皇)に取り入って思いのままに政(まつりごと)を司り、日本の3悪人の一人といわれる僧侶・弓削道鏡(700?~72年)みたいな人物といった方が早いかもしれませんね。

「妖婦 下田歌子」

 飯野吉三郎は美濃国(岐阜県)の岩村藩士出身で、それで、同じ岩村藩士の父を持つ歌人で実践女子学園などを創設した下田歌子と繋がりが出来たのでしょう。下田歌子はその類い稀なる才能と美貌から「明治の紫式部」と称されましたが、政府高官との浮名も絶えなかったといわれます。そのスキャンダルを暴いて「妖婦 下田歌子」を連載したのが平民新聞記者の幸徳秋水です。恨みを持った下田が隠田の行者と組んで、大逆事件を仕組んだのではないかという根強い噂がありました。

 これは30年ほど前に事情通のA氏から聞いた話ですが、例のWikipediaの「下田歌子」の項目にも書かれていました。

北斎が描いた隠田

 この隠田(現東京都渋谷区神宮前)という地名ですが、もともと「隠れて耕作し、年貢や祖税を免れた田」というのが語源だというので驚きました。原宿隠田は渋谷川(隠田川)から付けられたかもしれませんが、その逆なのかもしれません。江戸時代、葛飾北斎が「富嶽三十六景」の中で第9図「穏田の水車」として描いておりますから、歴史のある場所だったですね。

 今では原宿は、「若者の街」として休日などは足の踏み場もないほどごった返しますから信じられません。

夏目伸六も住んでいた隠田

 いやはや、色々調べると色んな事が出てくるものです。特に興味深かったのは、隠田には飯野吉三郎以外にも多くの著名人が住んでいたことです。もしかしたら、例の池田候が建てた200軒の貸家だったかもしれません。私が注目したのは夏目漱石の次男で随筆家の夏目伸六(1908~75年)です。彼の終の棲家が隠田で、伸六の妻信子が原宿竹下通り入り口で「小料理 夏目」を経営していたといいますが、私自身は全く知りませんでした。知っていたら絶対に訪れていたことでしょう(笑)。これもWikipedia情報ではありますが、信憑性は高いと思います。

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