「宮城与徳を送りだした男たち(矢野努と木元傳一)ーFBIとゾルゲ事件」
4月20日(土)、愛知大学東京霞が関オフィスで開催された第5回尾崎=ゾルゲ研究会に諸般の事情によりオンラインで参加しました。進藤翔太郎氏による「宮城与徳を送りだした男たち(矢野努と木元傳一)ーFBIとゾルゲ事件」の報告の後、一橋大学名誉教授で尾崎=ゾルゲ研究会代表の加藤哲郎氏による「ゾルゲ事件と米国共産党」の補完報告がありましたが、正直言って、かなりマニアックなお話でありました。
ゾルゲ事件講座があるとしたら、間違いなく上級編でしょう。ゾルゲ事件そのものの話ではなく、ゾルゲ事件の主軸メンバーの一人、沖縄出身の画家で、米国共産党員だった宮城与徳の話、でもなく、その宮城与徳を米国から日本に派遣した男たちの話だったからです。
その男たちというのは、報告のタイトルにあるように矢野努と木元傳一らです。かつては謎に包まれた人物でしたが、近年、米国立公文書館で機密指定解除された資料を基に彼らがどういう人物なのか、進藤氏が今回明らかにしたものです。
矢野努は豊田令助
まず、矢野努です。この人、発表資料では「矢野努」「矢野勉」「矢野務」など何種類も出てくるので、ミスプリントなのかと思い、オンラインで進藤氏に質問したのですが、見事無視、いや黙殺されてしまいました。そこで、勝手ながら自分の推測するところでは、全部使っていたと思います。何故なら、本名ではなく、党内の通称名だからです。共産党員は秘密工作に関わるので、まず本名で活動しません。野坂参三の通名、岡野進が恐らく歴史的にも一番有名でしょうが、矢野努も漢字なんかどうでもよかったのかもしれません。
宮城与徳の尋問調書によると、宮城は1931年秋頃、矢野某の勧誘で米共産党に加入し、33年9月に米国を出発して日本に入国し、同年11月下旬にゾルゲと会うことが出来たといいます。そういった意味で矢野努はキーパースンになるわけです。
進藤氏が機密指定解除された資料と遺族への聞き取りで分かった矢野努とは、1893年12月9日、新潟県佐渡生まれ。1918年東京高等師範学校卒業し、19年に後藤令助の名前で米国に入国し、28年に米共産党に入党。29年には11カ月間、モスクワの東方勤労大学(クートベ)で共産主義を学びました。ドイツ経由で米国に入国しようとしますが、豊田令助のパスポートでは許可が下りず、結局、将月令助の名前で新しくパスポートを発行してもらい、30年秋にニューヨークに再入国し、米共産党日本人部などで積極的に活動します。しかし、レーニン大学帰りのジョー小出と確執となり、共産党から離れ、庭師などで生計を立てたりしますが、44年にはCIAの前身であるOSSに勤めたりしています。ただし、戦後はFBIから集中的な取り調べを受け、50年には日本への国外退去処分にされています。
ロイとは木元傳一
次は、宮城与徳を米国から日本に送り出したもう一人、木元傳一です。宮城の供述では、指令してきたのは矢野某とロイともう一人白人の男ということしかなく、かつてはロイとは一体誰なのか?野坂参三ではないかという説もありましたが、ゾルゲ事件研究家の渡部富哉氏の調査で、1933年の時点で野坂参三は米国に滞在したことはなく、木元傳一だということが決定的になりました。
機密指定解除された資料によると、木元傳一は1906年、ハワイ生まれ(両親は日本人)、25年ハワイ中学を卒業後、ロサンゼルスで邦字紙の翻訳者として勤務していた31年、米共産党第13地区に加入(党名はロイ・レーン、ジャック・ヤマタ)、地下機関誌や労働組合の刊行誌などの編集に従事し、戦後はハワイ共産党の再活性化や左翼紙「ハワイスター」創刊に尽力したといいます。
以上は、大変マニアックな話で、ゾルゲ事件に関心がなければあまり興味がそそらないかもしれませんが、この後、補完報告した加藤哲郎氏の話は実に面白かったです。結論を先に書けば、ゾルゲ事件とは極東の小さな日本で起きた事件ではありますが、中国・上海だけでなく、ソ連、ドイツ、フランス、クロアチア、英国、そして何よりも米国(共産党)まで巻き込んだ遙かにスケールの大きい国際的事件だったということです。
ジョー小出は鵜飼宣道
まず、宮城与徳を日本に派遣した矢野努こと豊田令助と対立したジョー小出は、ロイこと木元傳一の上司に当たる人でした。本名は鵜飼宣道といい、デンバー大学で同級生だった米共産党日本人部初代書記の鬼頭銀一の後任の第2代書記を務め、野坂参三が1934~35年、36~38年米国非合法滞在中に地下活動の助手として活動しました。(そのため、後にカール米田、ジェームズ小田らから「裏切り者」「スパイ」として告発された)鬼頭銀一は、上海で、リヒァルト・ゾルゲと朝日新聞上海特派員の尾崎秀実を引き合わせた人物でした。(かつては、ゾルゲと尾崎を引き合わせたのはアグネス・スメドレーと言われたことがありましたが、加藤氏が定説をひっくり返しました。)
また、春名幹男著「秘密のファイル」などによると、開戦後、米共産党から脱党したジョー小出(小出貞治)は、CIAの前身OSSの対日謀略宣伝プロジェクトのリーダーになったといいます。1902年、東京・築地生まれ。先述した通り、本名鵜飼宣道。父親の鵜飼猛はサンフランシスコで学び、東京・銀座教会の第三代牧師になりました。祖父鵜飼渚は、松江藩士で、明治5年、銀座で朝野新聞(正確にはその前身の公文通誌)を共同創刊した言論人だったというから驚きです。明治7年に朝野新聞社長兼主筆となる私の尊敬する成島柳北とは友人だったと思われます。
さらに、ジョー小出こと鵜飼宣道の実弟は、東大教授から国際基督教大学(ICU)学長を務めた法学者の鵜飼信成と日本基督教団銀座教会名誉牧師の鵜飼勇だというのです。
ゾルゲ諜報団への派遣は米共産党経由
いずれにせよ、ゾルゲ事件の中心人物・宮城与徳の日本派遣は、モスクワからの指令ではありますが、大きく米共産党が絡んでいたのです。米共産党内には言語別グループがあり、矢野努が宮城与徳を米共産党入党を勧誘した1931年当時、米共産党日本人部の党員はわずか45人しかいなかったといいます。一番多かったのはフィンランド系で1600人、ユダヤ系も940人もいてそれに続きます。
ゾルゲが1933年、モスクワから日本に渡航する際、シベリア鉄道~中国から日本入国のルートにしないで、米国経由でカナダ・バンクーバー~横浜経由で入国し、35年のソ連一時帰国の際も米国経由だったのは、モスクワからの指令が米共産党経由で届いていたからだといいます。コミンテルン(共産主義インターナショナル、1919~35年)がまだ健在の時代だったからです。
宮城与徳を日本に派遣する際、ロイと一緒に同席した「白人の男」について、加藤氏は米共産党のカリフォルニア党の幹部のハリソン・ジョージか、サム・ダーシー、もしくは最有力諜報組織「ブラザー・サン」を率いたブラッドフォードことルディ・ベーカーではないかと推測しておりました。
私は、「へ~」と思いながら加藤氏の話を聴いていたのですが、これらの話の大部分が、2014年3月に出版された加藤哲郎著「ゾルゲ事件 覆された神話」(平凡社新書)に書かれておりました。私も当然ながら当時、読了しているのですが、もう10年も前のことなので、細かい内容についてはすっかり忘れておりました(苦笑)。
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