日本はスパイ天国か? 第7回尾崎=ゾルゲ研究会

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  4月26日(土)、東京・拓殖大学で開催された第7回尾崎=ゾルゲ研究会のセミナーに参加して来ました。かなり内容が盛りだくさんで濃密だった上、恐らく、この研究会の知的水準があまりにも高過ぎて、私自身、正直、ついていけませんでした(苦笑)。

 何よりも、登壇といいますか、マイクを持ってお話しされた方が10人近くおり、資料配布もほとんどなく、口頭だけか、もしくはスライド(パワーポイント)で、皆さん、機関銃のような速さでお話しされるので、メモがついていけず、ポカンと口を開けて拝聴するしかありませんでした。内容は「えっ?」と驚くような高等な話ばかりでしたが、私の力不足で再現できません。以下は、セミナーのほんの一部の話で、単なる個人的な感想文ということでお許しください。

第7回尾崎=ゾルゲ研究会
第7回尾崎=ゾルゲ研究会

 これでも私は、いわゆるゾルゲ事件に関しては、何十年も関連書籍を読んできたつもりでしたが、今回のセミナーでは知らない話ばかりでしたので、我ながら情けなくなりました。別に謝るつもりはありませんが(笑)、若い優秀な研究者が現れた、と頼もしくなりました。

 今回のセミナーは、私も以前、このブログで取り上げさせて頂いたことがある名越健郎著「ゾルゲ事件 80年目の真実」(文春新書)をめぐって、研究者らが書評するスタイルで進行しましたが、名越氏の本には出て来ない独自の研究発表が多かったでした。

尾崎とゾルゲのニュースソースは?

 一番、興味深かったのは澤田次郎拓殖大教授の発表でした。事件の首魁として処刑された尾崎秀実とリヒャルト・ゾルゲに極秘情報を漏らしたニュースソースに焦点を当てていたからです。2人は上海で、米共産党日本人部書記だった鬼頭銀一からの引き合わせで知り合いますが(加藤哲郎著「ゾルゲ事件」)、朝日新聞社上海特派員だった尾崎は、「取材」で上海総領事や領事館武官ら軍幹部らから得た満洲事変などの情報をゾルゲに伝えていました。そう言えば、私は上海時代のニュースソースについて、それほど気に掛けておりませんでしたが、澤田教授によると、当時の上海総領事は村井倉松で、武官は田代皖一郎(1881~1937年、陸士15期)だったというのです。特に、田代大佐は対中国インテリジェンスの専門家で、対中穏健派だったと言われ、惜しくも1937年7月に55歳(中将)で病死しました。もし、田代がもう少し長命だったら、泥沼化した日中戦争も、そうなる前に帰趨が変わっていたと言われています。私は田代皖一郎の名前は今回初めて聞きましたが、やはり、専門家の間でもそれほど知られておらず、いまだに詳細な研究がなされていないようです。

 ゾルゲのニュースソースになった人物としては、駐日ドイツ大使を務めたオイゲン・オットーとその妻でゾルゲの愛人だった説もあるヘルマが良く知られていますが、澤田教授は、在日駐在独武官のエルヴィン・ショル陸軍中佐に注目していました。ショル中佐は「1938年、もし日ソ戦争が起きれば、日本は満洲とソ連国境に接した密山から前進し、ウラジオストクを占領する計画がある」などといった情報をゾルゲに齎した、と言われています。

「東方のゾルゲ」閻宝航

 もう一人、東北大学大学院博士課程の何金凱さんは、「東方のゾルゲ」と呼ばれた閻宝航(1895~1968年)という人を紹介していました。1920年代から30年代にかけて中国東北地方で抗日運動家として活動し、中国共産党の秘密党員となり、コードネーム閻政の名前で諜報活動した人でした。1941年6月22日の独ソ戦争の正確な開始日までスクープしていたそうです。また、同年12月の日本軍による真珠湾攻撃まで事前につかみ、この情報はローズベルト米大統領にまで伝えられたという話もありましたが、全て、私は初めて聞く話ばかりでしたので、俄かに信じ難い気持ちにもなりました。

 閻宝航は、天安門事件で失脚した中央書記処書記だった閻明復(1931~2023年)の実父で、閻明復は、父親のスパイ活動等について著作を残しており、日本語がペラペラの中国人の何さんの発表もその著作から引用したものでした。(ただし、資料配布がなかったので、何さんの話を私が誤って認識していたら訂正致します。)

ジャパン・タイムズに登場していたゾルゲ

 一番分かりやすかったお話は、この日の主役である名越健郎拓大教授の「戦前のジャパン・タイムズが伝えるゾルゲ」でした。ジャパン・タイムズは1897年、伊藤博文らの支援で創刊された日本最古の英字紙で、戦前は外国人居留者のコミュニティー紙で、日本郵船所有の「龍田丸」で横浜港に上陸する乗客リストや記者会見に出席した外国人特派員の名前(勿論、ゾルゲも)まで掲載していました。

 戦前のジャパン・タイムズ紙の記事はほとんど残っていませんが、関西外国語大学がデジタル化しており、名越教授が同大学の知人にお願いして、「ゾルゲ」を検索したところ、6本の記事が見つかったといいます。その中で、最も大きく扱われていたのが1934年12月6日付「外国人特派員紹介」の記事で、1933年9月に来日したゾルゲ(1895~1944年)は、若い頃は、優れた陸上競技選手になることが夢で、中長距離走だけでなく、円盤投げややり投げまで得意で、(ゾルゲ19歳の)1914年のアムステルダム五輪のドイツ代表を目指していましたが、第1次大戦の勃発で陸軍に入隊し、戦場で二度も脚に弾丸を受けて負傷し陸上選手になることを諦めたことを語っています。(ただし、史実として、アムステルダム五輪は1928年であり、1916年のベルリン五輪が第1次大戦で中止になっているので、1914年アムステルダム五輪は誤りです。)

 また、ゾルゲの趣味は歴史研究で、過去7年間、極東の歴史研究に没頭し、日本史で最も興味を持ったのは、信長・秀吉の時代と明治時代だと答えています。実際、ゾルゲは、ソ連赤軍参謀本部情報総局(GRU)から派遣されたスパイでしたが、独フランクフルター・ツァイトゥング紙などの特派員記者を隠れ蓑にしながら、こうして堂々と、日本の英字紙に顔写真まで出して8年間も公然とスパイ活動をしていたことを初めて知りました。

1934年12月6日付 Japan Times (名越健郎氏提供)
1934年12月6日付 Japan Times (名越健郎氏提供)

 戦前の日本の内務省警保局は、治安維持法などを使って、日本人の社会主義者らを弾圧しましたが、外国人に対して甘かった。「日本はスパイ天国だった」と言わざるを得ません。えっ!? 今もですか?

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