第57回諜報研究会「モスクワ放送の裏オモテ」

第57回諜報研究会「モスクワ放送の裏オモテ」 歴史
第57回諜報研究会「モスクワ放送の裏オモテ」

 4月13日(土)、東京・早稲田大学で開催された第57回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催、早大20世紀メディア研究所共催)に参加して来ました。4時間に及ぶ長丁場で、平日の仕事と年のせいか疲労困憊してしまいました。(会場参加は十数人、オンライン参加は約40人)

 2人の講師が登壇しましたが、今回の共通テーマは「モスクワ放送の裏オモテ」でした。私自身は、GHQによって洗脳された「戦後民主主義の申し子」みたいな人間ですから、米軍によるFEN(極東放送網、現AFN)はかなり聴いておりましたが、モスクワ放送も北京放送も全くと言っていいほど聴いたことはありませんでした。正直言って、イデオロギーのプロパガンダ放送には興味がなかったか、難し過ぎてついていけなかったからでしょう。ですから、今回、モスクワ放送で働いていた日本人職員などについては初めて聞く話ばかりでした。

モスクワ放送とは

 ということで、私を含めて、モスクワ放送とは何か、知らない人が多いと思いますので、簡単に触れたいと思います。講師の方は勿論、会場に参加された人の多くがモスクワ放送通のマニアックな方ばかりでしたので、あまりにも常識し過ぎて、そもそもモスクワ放送とは何なのか、御説明がなかったからでした。

 モスクワ放送とは、ロシア革命に成功したソ連による革命の正当性とイデオロギーを全世界に現地語で流布する目的のプロパガンダ(ラジオ)放送、というのが大方の見方です。放送開始は1929年でドイツ語からでした、その後、直ぐに英語とフランス語も開始され、全盛期には70以上の言語で放送したといいます。日本では、戦中の1942年に開始し(ちなみに、1941年4月に日ソ中立条約が締結された影響があるのでしょう。ただし、45年4月、ソ連が一方的に同条約を破棄し、同年8月、満洲に侵攻。日本兵捕虜をシベリヤに抑留した)、ソ連崩壊後の1993年には「ロシアの声」、2014年には「ラジオ・スプートニク」に再編成されましたが、2017年には「プロパガンダ放送の存在意義を失った」などといった理由で停波されました。現在、モスクワ放送がどうなっているのか、私も気になって質問してみましたが、日本だけではなく、全世界でラジオ放送はなくなったそうです(元々、テレビや衛星放送もなかった)。ソ連崩壊で、西側諸国では共産主義イデオロギーは魅力がなくなったということなのでしょう。暴力革命で成立し、他国侵略を蛮行する全体主義国家の言い分には聞く耳を持ちたくないというのが西側諸国の本音なのでしょう。

青島顕氏「日本人職員の群像から見たモスクワ放送」

 最初に登壇したのは、毎日新聞記者の青島顕氏で、テーマは「日本人職員の群像から見たモスクワ放送」でした。同氏は昨年11月に「MOCT(モスト)『ソ連』を伝えたモスクワ放送の日本人」(集英社)を出版し、同書は第21回開高健ノンフィクション賞を受賞しています。MOCT(モスト)とは、ロシア語で「架け橋」といった意味で、本書では「東側ではご法度のビートルズを流した元民放アルバイトの男」「戦時中、雪の樺太国境を恋人と越境した名女優」「シベリア抑留を経て、迷いに迷って残留した元日本軍兵士」「『とにかく酷い目にばかり遭った。それでもロシアを信じたい』と語るアナウンサー」らが登場します。と書いておきながら、私はまだこの本を読んでおりませんでしたが(苦笑)、青島氏の講演は、この本を中心にした内容でした。

 「東側ではご法度のビートルズを流した元民放アルバイトの男」というのは、西野肇氏(1947年生まれ、モスクワ放送在籍73~83年)のことで、ニュースや解説など中核番組ではなく、エンターテインメントの番組を担当した人で、恐らく、モスクワ放送史上最も自由に自己裁量で放送ができた日本人職員だったようです。法政大を卒業した西野氏は、心情的左翼だったとはいえ、反ソ的だったいいますから、よく採用されたものでした。人気DJとなり、ソ連の70年代の宣伝紙「エコー」にも登場するほどしたが、10年で見切りをつけて帰国しました。(西野氏は、講演中に青島氏の電話インタビューに登場されましたが、今でも声がとても若々しかったでした)

第57回諜報研究会「日本人職員の群像から見たモスクワ放送」青島顕氏
第57回諜報研究会「日本人職員の群像から見たモスクワ放送」青島顕氏

 西野氏と正反対な人は、日向寺康雄氏(1958~2024年、在籍1987~2017年)です。早大露文科を卒業し、ソ連・ロシアにはシンパシーを持った人でした。1982年頃、論文コンクールで入賞した副賞でモスクワ旅行し、そこで岡田嘉子と会って、モスクワ放送入りを勧誘されたりしています(その時、空きがなく、翻訳員として採用されたのは87年)。岡田嘉子とは「戦時中、雪の樺太国境を恋人と越境した名女優」のことで、1942年のモスクワ放送日本語放送開始から立ち合った人です。

 日向寺氏は、モスクワ放送で30年間もアナウンサーを続けた人で、日ロ友好に仕事の意義を見つけようとした人だったようです。残念ながら、今年1月に急逝されたそうです。この他、多くの日本人職員の足跡が紹介されましたが、省略させて頂きます。

田中則広氏「ソ連の対日プロパガンダの舞台裏~モスクワ放送における日本人構成員の変遷と役割~」

 次に登壇したのは、田中則広・淑徳大准教授で、テーマは「ソ連の対日プロパガンダの舞台裏~モスクワ放送における日本人構成員の変遷と役割~」でした。田中氏は元NHKのディレクターで、子どもの時から、BCLブーム(特に短波などで海外の国際放送を楽しむ)に乗って、モスクワ放送や北京放送などをよく聴いていたといいます。年季が入っています。

 田中氏は研究者となり、モスクワ放送に関わった日本人の時期区分を4期に分けていました。

 第1期は、1942年の日本語放送開始からで、主力人物は、亡命者や社会活動家ら戦前組で、岡田嘉子、野坂龍、ムヘンシャンこと緒方重臣らです。

 第2期は、1950年代前半で、新たに加わった主力人物は、元抑留者で、ソ連に共感し、日本の民主化に尽くそうとソ連に残った元日本兵で、清田彰、滝口新太郎らがいました。

 第3期は、1950年代中盤で、新加入の主力人物は、日本共産党関係者で、北京の自由日本放送から転じた河崎夫妻(河崎保、清水美智子)らがいました。(ただし、1960年代の中ソ対立から日本共産党は「親中反ソ」となり関係者も撤退します)

 第4期は、1973~93年で、新加入の主力人物は、フリーの若者で、その代表が、先の毎日新聞の青島氏も取り上げた西野肇、日向寺康雄らでした。

第57回諜報研究会「ソ連の対日プロパガンダの舞台裏」田中則広氏
第57回諜報研究会「ソ連の対日プロパガンダの舞台裏」田中則広氏

 田中氏によると、この中で、放送現場で中心的役割を担ったのは、第2期の、共産主義に肯定的だった元抑留者で、滝口氏は1971年に亡くなるまで20年間、清田氏は、1989年に引退するまで40年間従事したといいます。しかし、第4期のフリーの西野氏らとは異なり、放送では自由な発言は認められなかったといいます。

 会場には、モスクワ放送に数年勤務したことがあるという日本人の方も参加しておりましたが、モスクワ放送の人事や放送内容等はKGBが差配したり、監視したりしていたと仰っていました。また、モスクワ放送関係者は、日本に帰国すれば、日本の公安からマークされていて、定期的に面談したりしたそうです。以上、関係者しか知り得ない史実なので、付け加えておきます。

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