泣く子も黙る憲兵になった大先輩、大山勉 東京外国語大学「仏友会」会報第32号

東京外語仏友会会報「La Nouvelle」春32号 歴史
東京外語仏友会会報「La Nouvelle」春32号

  東京外国語大学でフランス語を専攻した卒業生(と現役大学生)の親睦会に「仏友会」というものがあります。年2回、春と秋に定期的に会合(親睦会)を開き、会報「La Nouvelle」も発行しているのですが、その会報誌第32(春)号=2024年4月1日発行=に小生の寄稿文が掲載されましたので、このブログにも再録させて頂くことに致しました。

  身内の親睦会の会報なので、どうしても読者数に限りがありますので、我ながら勿体ないなあ、と思ったのでした。執筆者は私ですが、調査と資料提供は、在野の近現代史研究者で日本インテリジェンス研究所特別研究員の名倉有一さんです。ですから、私は何もしてません。全ての功績は名倉氏にあります。

◎泣く子も黙る憲兵になった大先輩、大山勉

 「大杉栄、中原中也、石川淳…、外大出身者は反逆者ばかりじゃないか。特にフランス語科は!」。もう半世紀近い昔の西ヶ原キャンパスの教室で某教授が講義中にこう皮肉交じりに言い放った言葉が今でも忘れられません。

 大杉栄はアナーキスト、中原中也はランボーの翻訳も手掛けた今でも人気の詩人、石川淳は無頼派作家。いずれも東京外国語学校(当時)の仏語出身で、我ら仏友会の誇るべき大先輩です。某教授は天下の東大出身ですから、上から目線のマウンティングでもしたかったのでしょう。「反逆者?上等じゃねえか。俺はそんな反逆者に憧れて、外語の仏語を選んだんだ。東大なんて、体制べったりのたかが官僚養成学校じゃないか」。若き私は反発したものでした。

 私は、外語大を卒業して、ジャーナリストの道を選び、政官財界人から芸能、スポーツ選手に至るまで取材する機会に恵まれ、世の中のカラクリを見て来ました。世間というものは「体制派VS反権力者」といった単純な構造ではないことは熟知しました。大杉栄の殺害を指示した甘粕正彦憲兵大尉も実は大変な人格者で、国家の行く末を危惧する愛国者だったことを知れば尚更です。

 それでも、個人的に東京外語の仏語科出身者は、反権力者であってほしいという密かな願望がありました。そのせいか、小生の畏友である名倉有一さんという在野の歴史研究者から、大山勉という東京外語仏語出身で、戦時中は憲兵だったという人物の存在を知らされた時は大いに驚きました。大山は、外語仏語出身なのにいわゆる「体制派」です。そんな人がいたとは!

 以下は、名倉氏が先行研究から調査し、1998年までに当時御存命だった大山勉の外語仏語科の同級生8人を発掘し、手紙のやり取りなどで、明らかになった大山勉の人物像です。

 大山勉は1915年、群馬県で生まれ、79年、64歳ぐらいで都内で亡くなっております。生没年と出生地はいずれも推測です。東京外語会94年版名簿などによると、33年に東京府立四中(現都立戸山高校)を卒業し、35年、東京外国語学校入学、39年に仏語貿易科を卒業。その後、憲兵として、仏印のサイゴン(現ホーチミン)やビルマ、そして東京に赴任したようです。

 名倉氏が大山勉に注目したのは、池田徳眞著「日の丸アワー」の中で、対米謀略放送施設があった東京の「駿河台分室」で、協力を拒否した英国人の捕虜ウィリアムズを東京憲兵隊本部に連行した警備担当の憲兵軍曹としてこの大山が登場していたからです。同書74ページにこんな記述があります。「彼の部屋をみると、これまた不思議である。フランス語の本がずらりと並んでいて、彼自身はゾラやモウパッサンの小説を仏語で読んでいる。それは、私たちの憲兵というイメージとだいぶ違うので聞きただしてみると、彼の言うには『私は仏文卒で、仏語の勉強を命じられているのです』とのことであった」

 また、大山勉の外語時代の同級生武博宜(当時、恐らく83歳ぐらい)は、名倉氏の質問に98年2月19日付の書簡で「(大山は)時折改造社あたりから出版されたブハーリン、トロツキーなどの書籍を小脇に抱えていたのを覚えています。後年憲兵になったー恐らく志願したのでしょうーことを思い合わせると異(ママ)和感を覚えます」と思い出を語っています。

 戦時中は、先述したように、大山は仏印のサイゴン憲兵隊に転勤した際、外語同級生の木村寿栄吉(貿易会社員から南方総軍の報道部に徴用され、開戦の日から一年間、サイゴンの情報部で勤務)が同地で会ったことを、名倉氏への書簡(98年2月24日と4月2日付)で明らかにしています。

  戦後は、「大山憲兵は、富士山麓の農民の先頭に立って、米軍の実弾射撃訓練に反対する行動を指導しているという噂」(88年8月30日付、同級生の谷山樹三郎から名倉氏宛て書簡)がありましたが、先述の同級生武博宜は「戦後大山君が、『反戦』「反米』の立場をとっていたかどうかについては、全く心当りがありません。彼との間にその種の話を交はした記憶もありません」と名倉氏宛ての書簡(98年3月24日)で応えています。また、武博宜は、98年2月19日付の名倉氏宛て書簡で、「(大山と)最後にクラス会で会った時は身体がすっかり不自由になり、気力も衰えていました」と明かしています。

 そのクラス会とは、1975年ごろで、大山勉はその4年後に64歳で亡くなったと推測されています。

 周囲にいた同級生の思い出から、大山勉という人物は長身で、大変聡明な上、真面目で勉強家だったようですが、どうも矛盾に満ちた人物でもあったようです。ただ、東京外語仏語出身の矜持は最後まで失わず、仏語の勉強を怠らなかった姿は、我々後輩として、感銘を受けざるを得ません。(一部敬称略)

仏友会会報誌「La Nouvelle」第32(春)号

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