【福井旅行(中)】越前大野城、白山平泉寺、福井県立恐竜博物館、一乗谷朝倉氏遺跡、丸岡城

福井県立恐竜博物館 keiryusai.net 歴史
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 福井旅行の二日目の話です。

 【二日目 9月13日金曜日】

越前大野城

  朝9時出発で、越前大野城に向かいました。雲海に浮かぶ「天空の城」と呼ばれていますが、年に10回程度しか見ることができないそうでした。まさに、結構きつい坂を登る山城でした。麓から天守まで約20分ほど掛かりました。

 越前大野市は、高校時代の英語の大庭先生の故郷でしたので、先生から「良い所だから一度行ってみなさい」と言われておりました。実に半世紀経って、先生の御要望にお応えしたことになります。大庭先生は当時、30代でしたから、現在80歳はゆうに越えているはずです。お元気でいらっしゃるでしょうか。

越前大野城 keiryusai.net
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 越前大野城は、織田信長の家臣金森長近が天正4年(1576年)、4年の歳月をかけて築城したものでした。同時に見事な碁盤の目の城下町もつくりました。江戸時代になって、古河藩の土井家が移封されてきたということで一層、近しみを感じました。なぜなら、古河市(茨城県)は城巡りで個人的に訪れたことがあるからです。古河藩は、渡辺崋山が描いた家老の鷹見泉石がいた藩でしたね。(「鷹見泉石像」は国宝です)古河藩主の土井利位は、大坂城代も兼ねていたので、鷹見泉石は大塩平八郎の乱を平定しております。

白山平泉寺

 この後、白山平泉寺に向かいました。白山信仰の拠点らしいのですが、境内の広さには圧倒されました。「北陸の苔寺」と呼ばれているように、京都の苔寺(西芳寺)と遜色のない感じでした。

白山平泉寺 keiryusai.net
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白山平泉寺の苔 keiryusai.net
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 どういうわけか、楠木正成の墓塔があるというので、お参りして来ましたが、かなり奥まった所にあったので、息が切れてしまいました。とにかく、俗世間から離れた落ち着いた雰囲気で何度でもお参りしたい寺院でした。(明治以前は神仏習合で白山神社と併設され、現在は復活しています)

白山平泉寺 keiryusai.net
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白山平泉寺 楠木正成公墓塔 keiryusai.net
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福井県立恐竜博物館

 この後、「福井県立恐竜博物館」に向かいました。私の目的地ではありませんでしたが、ツアーで一人で参加していた野辺さんという若い女性が恐竜好きだそうで、この博物館がコースに入っていたので申し込んだと聞きました。そんなに凄いのかしら? そしたら、何と、ここは世界三大恐竜博物館の一つでした。それだけ、質量ともに大変充実した博物館でした。

福井県立恐竜博物館 keiryusai.net
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 この博物館の後、観光旅行らしく、一旦バスから下車して、えちぜん鉄道というローカル線に乗りました。勝山駅から永平寺口駅まで約30分ぐらいでした。そこからまたバスに乗って、いよいよ私の今回のツアーの目的地である一乗谷朝倉氏遺跡に向かいました。

一乗谷朝倉氏遺跡

 その存在はテレビの「ブラタモリ」で知りました。朝倉氏は孝徳天皇の末裔という説もあり、高貴な家柄です。1467年の応仁の乱以降、1471年から越前の守護(前任は斯波氏)として認められ、この一乗谷の地で、初代朝倉孝景以後5代に渡って繁栄しました。しかし、5代当主朝倉義景の時代に織田信長と対立し、信長軍に攻め込まれ、義景は甥の裏切りもあり、1573年に朝倉氏は滅亡します。城下町も焼き払われました。

一乗谷朝倉氏遺跡 keiryusai.net
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一乗谷朝倉氏遺跡 keiryusai.net
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 しかし、全盛期の規模は驚くほどです。保存会のガイドさんの説明によると、山あいの一乗谷の5キロ弱の広さに寺院40、神社20もあり、人口が京都、大坂堺に次ぎ第3位の大都市だったそうです。

 また、朝倉氏は金山を四つも所有していたそうで、比叡山にも金貸しをして結びついていたようです。

一乗谷朝倉氏遺跡 keiryusai.net
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一乗谷朝倉氏遺跡 keiryusai.net
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 信長軍の総司令官は柴田勝家で、先述したように、城下町をことごとく焼き払いました。事前に、織田信長による比叡山焼き討ちの話を聞いていた一乗谷の住人たちは、焼き討ちに遭う前に一斉に逃げたので、昭和42年から始まった遺跡発掘現場から人骨はあまり出て来なかったそうです。

 一乗谷は、江戸時代は農村となって田畑として利用され、一部の遺構は失われましたが、大半は地中に保存され、今でも発掘作業が続いております。だから、「日本のポンペイ」と呼ばれているそうです。

一乗谷朝倉氏遺跡 keiryusai.net
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一乗谷朝倉氏遺跡 keiryusai.net
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 保存会の人たちも、この遺跡を「世界遺産にしたい」と日々、奮闘されていました。

 実現すればいいなと私も思っています。

一乗谷朝倉氏遺跡 keiryusai.net
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 この後、福井市内の和食処「かばた」(大正11年創業)で若狭牛の夕食をとりましたが、ちょっとお腹の調子が良くなくて、今度はビールが注文できたのに飲む気も起らず、満喫できなかったのが残念でした。

丸岡城

  この後、夜6時半から、丸岡城のプロジェクションマッピングに参加しました。丸岡城は現存天守12城の一つ(重要文化財)ですから、昼間に訪れたかったのですが、仕方ありません。夜のショーを楽しみました。天守に登れませんでしたが、「日本100名城」のスタンプを押してもらいました(笑)。

丸岡城 keiryusai.net
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 丸岡城は天正4年(1576年)、柴田勝家の甥・勝豊が築城したと言われています。今では「一筆啓上 日本一短い手紙の館」として有名です。徳川家康の家臣本多重次が妻に宛てた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の手紙から来ています。お仙とは、初代丸岡藩主となった本多成重(重次の嫡男)のことです。

丸岡城 プロジェクションマッピング keiryusai.net
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(つづく)

  福井県立恐竜博物館の恐竜(恐らくティラノサウルス)の動画をお楽しみください。

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