「占領期文化の再検討」第70回諜報研究会

第70回諜報研究会 雑感
第70回諜報研究会

 12月6日(土)、東京・早稲田大学で開催された第70回諜報研究会(NPO法人インテリジェンス研究所主催)に参加して来ました。70回の節目の記念の会に、どういうわけか小生が今回、司会を申し付けられました。私は単なる取材記者として、2012年12月に開催された第1回諜報研究会からなるべく欠かさず参加しておりましたが、あくまでもアウトサイダーでした。いつの間にか、インサイダーとなってしまい、司会と取材記者の「二刀流」で奮闘させて頂きました。

 事前の告知案内で、司会者として小生の名前が出たせいなのか、今回は会場もオンラインも参加者が極端に少なかったでしたね。主催のインテリジェンス研究所の会員は2500人と抜きん出て多いのですが、参加者は、その百分の一プラスαと寂しい限りでした。

 已むを得ず参加出来なかった皆様は、この記事を読まされることになるかもしれませんが、あくまでも囲碁将棋かスポーツの観戦記のような個人的感想文であることはお断りするまでもないですね。

「木下順二の一九四〇年代再考―戯曲「山脈」を手がかりに―」

 今回のテーマは「占領期文化の再検討」で、お二人の方が登壇されました。最初の報告者は、吉田敦美氏(早稲田大学大学院文学研究科日本語日本文学コース博士後期課程一年)で、演題は「木下順二の一九四〇年代再考―戯曲「山脈」を手がかりに―」でした。

吉田敦美氏「木下順二の1940年代再考」
吉田敦美氏「木下順二の1940年代再考」

 なかなか難しい高尚な文学の話で、「夕鶴」「オットーと呼ばれる日本人」など戦後を代表する劇作家木下順二が1948年に発表した戯曲「山脈(やまなみ)」を中心に、木下の戦後1940年代後半の問題意識を再考するという意欲的な発表でした。この時代の日本は、米軍による占領下で、民主主義が導入され、農村の民主化の名の下に農地解放も行われました。作品の舞台は長野県の諏訪地方の農村で、「主人公のとし子が疎開者の立場から〈民衆〉の歴史を紡いでいくという、国民的歴史学運動の萌芽ともいえる場面があり、戦後には、民主主義が提示されながらも、実感を伴ってつかみ切れない様子が描かれている」といいます。私はこの作品を読んでおりませんし、舞台も拝見していないので、吉田氏の発言をそのまま引用させて頂きましたが、作者には、知識人による「上から目線」の歴史観に批判的な視点があるようです。

 「山脈」については、私もよく存じ上げている演劇評論家の大笹吉雄氏をはじめ、多くの先行研究や、また、作者の木下順二に関しては、インテリジェンス研究所の山本武利理事長が「進歩的文化人と呼ばれた木下は、戦後GHQによる検閲に協力した検閲監督官だった」という疑惑を発掘し、吉田氏もそのことをしっかりと取り上げておりましたが、それらに関して、もう少し前面的に自分の意見や感想を押し出した方が独自性を発揮出来たのではないかと思いました。

「戦後日本のアメリカニゼーション -『ブロンディ』を通して」

 次に登壇した報告者は、岩本茂樹・元神戸学院大学現代社会学部現代社会学科教授で、演題は「戦後日本のアメリカニゼーション -『ブロンディ』を通して」でした。1949年1月1日から1951年4月15日まで734回、「朝日新聞」に連載されたチック・ヤング作の米4コマ漫画「ブロンディ」に焦点を当てた作品分析と、敗戦直後の日本人が、「ブロンディ」に出てくる「裕福」で「男女同権」の米国の生活文化をどのように受容したかを明らかにした大変興味深い内容でした。

岩本茂樹氏「戦後日本のアメリカニゼーションと『ブロンディ』」
岩本茂樹氏「戦後日本のアメリカニゼーションと『ブロンディ』」

 私自身は当時は生まれていませんし、同時代人ではなかったので「ブロンディ」を読んだことがありませんが、(恐らく)パーマをかけた金髪の若い主婦ブロンディとその名前だけは知っておりました。報告者の岩本氏には「憧れのブロンディ 戦後日本のアメリカニゼーション」(2007年)という大著まであり、同時代人だった井出孫六、獅子文六、南博、矢内原伊作といった作家、評論家、学者の「ブロンディ論」(「哀れな俸給労働者」「主権在主婦」「亭主は自動人形」など)を引用して、当時受け入れた日本人の「時代的雰囲気」を再現したり、ブロンディに出てくる登場人物や舞台装置まで分析したりしておりました。

 例えば、その中で、岩本氏は、朝日新聞に連載された734回分全てに目を通して、漫画に出てくる「家庭電化製品類」を一つずつ手作業で勘定して、冷蔵庫が87回、電気掃除機が18回、洗濯機が4回、トースターが3回登場していた…などと明らかにしています。気の遠くなるような作業だったことでしょう。1940年代後半の日本では冷蔵庫を始めとした家電製品はほとんど普及しておらず、さぞかし米国は裕福で、主婦の家事は日本より遥かに軽減されていると思ったことでしょう。

 また、内容も「夫から妻への指示」が20回であるのに対して、「妻から夫への指示」が155回もあったことから、米国は、家庭内では主婦が「主権」を握っている、と当時の日本人は思ったことでしょう。

 ただ、このような米国の裕福さや民主的な男女平等を象徴するような漫画「ブロンディ」を、何故、朝日新聞が掲載したのか、いまだに謎だといいます。

 最初に「ブロンディ」が紙面に現れたのは、1946年6月の「週刊朝日」で、朝日新聞はその前年に、GHQによる検閲コードに抵触する記事を掲載したため、業務停止命令を受けました。そのことから、岩本氏は「業務停止処分のマイナスを補うべく、占領軍への忠誠を示すためだったのではないか」と推測しています。

 また、朝日新聞の紙面には、何ら社告もなく、急に1949年1月1日から「ブロンディ」の連載が始まり、これまた、何のお知らせもなく、急に1951年4月15日に連載が終了します。この日は、GHQのマッカーサー総司令官が米国に帰国する日で、最終回には「さよならマ元帥! さよならブロンディ!」とあったといいます。このことから、岩本氏は「『ブロンディ』掲載は、朝日新聞社の保身の担保であり、占領軍への恭順のシンボルだった」との仮説を立てておりました。

 「ブロンディ」を週刊朝日や朝日新聞に掲載し、また翻訳までしたのは、同社出版局渉外課長の長谷川幸雄であることが分かっていますが、朝日新聞社が、社として掲載するようになった経緯や理由などについては社史にも残っておらず、謎だといいます。

 当時は占領期で、言論統制下にあったので、岩本氏の推論は当たらずとも遠からず、といったところでしょう。ゲスな言い方をすれば、「朝日は米軍に阿って掲載した」と邪推もできます。

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