斎藤充功著「安重根はなぜ伊藤博文を撃ったのか」を読んで

斎藤充功著「安重根はなぜ伊藤博文を撃ったのか」(論創社)keiryusai.net 書評
斎藤充功著「安重根はなぜ伊藤博文を撃ったのか」(論創社)keiryusai.net

 斎藤充功著「安重根はなぜ伊藤博文を撃ったのか」(論創社)を読了しました。同書は、1994年に時事通信社から出版された「伊藤博文を撃った男」(1997年、中公文庫)を改題し、補遺を加筆した上で、29年ぶりに「論創ノンフィクション」シリーズの第69巻として復刊されたものです。著者の斎藤氏から版元を通して献本を受けました。

 「革命義士」安重根(1879〜1910年)が、「明治の元勲」伊藤博文(1841〜1909年)を満洲(現中国東北部)ハルビンの駅頭で拳銃で暗殺したのは1909年10月26日のことでした。安重根30歳、伊藤博文68歳。

 伊藤博文は同年11月4日、東京・日比谷公園で国葬が営まれましたが、安重根は、旅順監獄に投獄され、地方法院の予審で死刑判決を受け、上訴を断念しことから、翌1910年3月26日、死刑が執行されました。

 安重根は、日本では「反日テロリスト」ですが、韓国では「祖国の英雄」であり、彼の記念館も建てられています。

 著者の斎藤氏は、1993年11月、岡山県笹岡市の浄土真宗本願寺派・浄心寺を訪ね、そこで安重根の遺墨(3幅の掛軸)を見せられたことがきっかけで、「安重根はなぜ伊藤博文を撃ったのか」、取材にのめり込んでいきます。もともと、浄心寺を訪問したのは、20世紀初頭に中央アジアやシルクロードを学術探検した浄土真宗本願寺派門主だった大谷光瑞を取材するためでしたが、浄心寺の住職の津田康道老師が取材が終わった後の雑談の中で、自分の大叔父に当たる津田海純が旅順から持ち帰った安重根の遺墨を斎藤氏に見せてくれたのでした。

 津田海純という僧侶は、明治末に満洲に渡り、西本願寺旅順出張所で布教の傍ら、旅順監獄で教誨師補も務め、安重根とはかなり濃密な交流があり、獄中で書かれた3幅の掛軸を贈られ、日本に持ち帰りました。(この遺墨は、1997年に浄心寺から龍谷大学に寄託されました。)

 この本によると、この津田海純を含め、安重根と接触した日本人で、東アジアの平和と民族主権を願う安重根の「東洋平和論」(未完の獄中記)に感銘を受けなかった者は誰一人としておらず、安重根処刑後、その人柄を惜しんで多くの日本人も慟哭したといいます。

 著者の斎藤氏は、足掛け9カ月間も旧満洲のハルビンや大連、旅順を始め、韓国や米国にまで足を伸ばして取材旅行を敢行し、この本を著しました。30年以上昔の著作ですが、内容は古びておらず、本人も「自信作です」と述べておられます。

 というのも、安重根といえば、日韓両国で軋轢があった場合、必ず、その度に蘇る歴史上の人物だからです。私は不勉強で、伊藤博文暗殺事件は、日本が朝鮮半島を植民地化した最中に起きた事件だと誤解しておりましたが、日韓併合は、暗殺事件の翌年の1910年で、日本はこの事件を利用して、植民地化に本腰を入れたという説があるようです。しかし、伊藤博文自身は、韓国併合に関しては消極的だったという説があり、もし、安重根がその事実を知っていれば、凶行に及ぶこともなかったかもしれません。

 この本は、当時の東アジアの緊迫した複雑な世界情勢が描かれ、読み応えがありますが、ただ大変残念なことは、誤植が散見されることです。例えば、「一八九四(昭和二七)年」→「一八九四(明治二七)年」(35ページ)、「猛者」→「猛暑」(127ページ)などですが、お忙しい編集者さんが校正していないのではないかと疑いたくなりました。増刷の際、訂正してもらいたいものです。

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