李香蘭主演「私の鶯」は「幻の映画」ではなかった?

李香蘭(出典 Wikimedia commons) 雑感
李香蘭(出典 Wikimedia commons)

 藤原作弥・山口淑子著「李香蘭 私の半生」(新潮文庫)の中に、1943年に満洲映画協会=満映(甘粕正彦理事長)によって製作された「私の鶯」は、「中国でも日本でも公開上映されることなく、文字どおり”幻の映画”となった」と書かれています。

 李香蘭こと山口淑子さんが、この御自身が主演した映画を初めて観たのは、1986年6月で、場所は、東京・新宿の安田生命ホール。この日本初の一般公開は「ハルビン学院同窓生で、東京・新宿のロシヤ料理店チャイカを経営する麻田平草さんという篤志家が私財を投じて企画した鑑賞会である」(279ページ)と書かれてありました。

 「ハルビン学院24期卒業生の麻田平蔵さん(1923〜2018年)」とは、私も面識があり、ロシア料理店チャイカには何度も行ったことがあります。麻田さんは恵雅堂出版社(東京都新宿区)の創業者であり、陶山幾朗編著「内村剛介ロングインタビュー」など満州関連の本も多く出しております。

ハルビンでロケ、上映も

 そこで気になったので、恵雅堂出版の元編集者でハルビン学院同窓会の事務局長も務めていた宮さんに伺ってみました。

 そしたら、「幻の映画」ではなく、中国のハルビンでは上映されていたことが分かりました。宮さんは大変几帳面な方なので、古い資料等はちゃんと整理して保存されているので、その貴重な資料を添付して送ってくださいました。

 「私の鶯」の製作は満映の岩崎昶となっていますが、撮影スタッフのほとんどが東宝なので「東宝提携映画」でした。原作は大佛次郎、監督・脚本は島津保次郎、音楽は服部良一という当代一の豪華メンバーです。日本初の本格的な音楽映画でした。1917年のロシア革命で満洲に逃れて来たロシア帝室歌劇場のオペラ歌手たちと彼らを匿った日本商社の支店長一家が戦闘に巻き込まれ、バラバラになりながら再会する物語で、台詞も歌もロシア語翻訳で、日本語は字幕のみでした。しかし、関東軍報道部の「満州国人にみせるべき啓蒙価値、娯楽価値が無く、国策にそぐわない」といった理由でお蔵入りになった、というのが通説でしたが、実際、ハルビンでは上映されていたというのです。

 何故かと言うと、「私の鶯」のロケ現場が、帝政ロシアが建設した国際都市である満洲のハルビンで、「ロシア人の芸術家も総動員して製作されたので、ハルビンだけでも上映せざるを得なかったのではないか」というのが麻田氏の推測でした。また、満映の甘粕理事長による指示もあったかもしれないというのです。

 送られてきた資料によると、麻田氏も当時、ハルビンでロケ現場を見たことがあり、麻田氏のハルビン学院24期同期生の柳富士雄氏は李香蘭から快くサインをしてもらい、同じく同期の藤木伸三氏は、ハルビン市内で「私の鶯」の映画ポスターを見たことがあり、市内の映画館「平安座」で見た覚えがあると証言しておりました。

 「李香蘭 私の半生」の著者の山口淑子氏は2014年に、藤原作弥氏は昨年10月に亡くなられましたが、もしご健在だったら、「『私の鶯』は、中国でも日本でも公開されなかった幻の映画」ではなく、ハルビンで上映されていたことをお伝えしたかったですね。

追記:ハルビン学院記念碑祭は昨年が最後

 と、書いたところ、ハルビン学院元事務局長の宮さんからご連絡があり、「ハルビン学院記念碑祭は昨年2025年が最後でした。このことはぜひ告知していただきたくお願いいたします」とありました。

 詳細につきましては、「アヴローラ41号 2025年12月1日発行」をご参照ください。「1999年から同窓生達が集ってきた記念碑祭ですが、開校から105年、1945(昭和20)年8月の閉校から80年の節目である今回をもって幕を下すことになりました。」とあります。

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