「渓流斎さん、荻窪の『荻外荘』(てきがいそう)をご存じですか?近衛文麿(1891~1945年)が昭和12年から同20年まで過ごした旧私邸です。もし、関心がおありでしたら、ご案内します」ー。先月、曽我純さんから急にこんなメールがありました。
関心がないどころではありません。昭和15年7月19日、第2次近衛内閣組閣時に「荻窪会談」が行われた歴史的場所です。集ったのは、近衛のほか、次期外相候補の松岡洋石、次期海相候補の吉田善吾、次期陸相候補の東条英機の4人。同年6月にドイツがフランスを降伏させてパリに入城したことから、日独伊の同盟の強化策などが話し合われたといわれます。近現代史に興味がある人なら一度は訪れてみたいところです。その後、よんどころない事情で荻外荘訪問は延期されましたが、昨日やっと実現しました。
東京の荻窪と言えば、新宿まで中央線快速ならわずか10分で、今では超高級住宅街として知られています。私も長く生きておりますが、生まれて初めて訪れました。JR荻窪駅の南口は特に高級住宅街で、東京都杉並区は、荻外荘のほか、角川書店創業者角川源義(1917~75年)と音楽評論家大田黒元雄(1893~1979年)の旧宅を公園化して「荻窪三庭園」として一般公開しております。
曽我さんは、この3庭園を案内してくださいましたが、周囲は閑静な御屋敷ばかりで、思わず、私は「もう勘弁してくれい!」と叫んでしまいました。一体、どんな人が住んでいるのか不思議になるほどの豪邸だらけでしたが、余計な詮索はやめておきました。
荻外荘
最初に訪れたのは荻外荘です。入場料300円は曽我さんが払ってくださいました。ここは、もともと、大正天皇の侍医頭を務めた入澤達吉東京帝大医学部教授(1865~1938年)の別邸「楓荻荘」として、入澤の義弟の建築家伊東忠太(1867~1954年)の設計で昭和2年(1927年)に建てられたものでした。伊東忠太は築地本願寺を設計した人としても知られています。楓荻荘は昭和12年に、近衛に譲渡され、元老西園寺公望の命名で荻外荘となりました。

ガイドさんの説明では、現在の荻外荘は敷地面積2000坪ですが、当初はその10倍の2万坪もあったそうです。近衛文麿は、1000年以上の歴史を誇る摂関家筆頭近衛家の嫡男、そして公爵です。当時の富裕層の桁違いさには圧倒されるばかりでした。残念ながら、近衛は、敗戦後の昭和20年12月16日、GHQから逮捕令を発っせられ、出頭期日にこの荻外荘の書斎で自決しました。行年54歳。
角川庭園
次に訪れたのは「角川庭園」です。角川書店創業者で俳人としても知られる角川源義の邸宅が杉並区に寄贈され、庭園として無料公開されました。確かに庭園が素晴らしく、いま流行りの言葉で言えば、「インスタ映え」する感じです。振袖姿の若い女性が何人も、何かの記念撮影をしておりました。茶室もあり、「源義さんはこんな凄い所に住んでいたのかあ~」と驚きました。また、御息女で作家の辺見じゅんさんや御子息の角川春樹、角川歴彦兄弟もこの家に住んでいたのかなと想像しました。とはいえ、角川源義さん御本人は58歳の若さで亡くられていたんですね。
角川庭園では見学に夢中になってしまい、写真を撮ることを忘れてしまいました。
大田黒公園
次に向かったのが、「大田黒公園」です。音楽評論家の大田黒元雄の邸宅を杉並区が庭園として整備し、これまた無料で公開されています。私自身、この大田黒元雄さんについて、よく知りませんでしたが、日本に初めてドビュッシーやストランビンスキーを紹介したクラシック音楽評論家の草分け的存在でした。

最初にこの公園、つまり大田黒邸の門を潜ると、参道のような銀杏の並木道が200メートルぐらい続き、「ここはお寺か!?」と思わせ、腰を抜かすほどでした。都会の高級住宅街ですが、桁違いの広さと貫禄です。周囲とは別格の雰囲気で、眩暈がしてしまいました。

旧邸宅内にはスタインウェイのグランドピアノが展示され、ここでコンサートも開かれていたようです。
渡辺錠太郎教育総監邸跡
ここまで結構歩きましたが、最後に、二・二六事件で暗殺された渡辺錠太郎教育総監の自宅跡に行ってみました。渡辺教育総監は荻窪に住んでいたからです。事前に曽我さんには、どの辺りなのか場所を調べてもらいました。荻窪駅の反対の北口の商店が立ち並ぶ繁華街を避けて、光明院の近道を通った所にあるようでした。
渡辺邸を襲撃したのは安田優、高橋太郎両中尉率いる下士官兵約30人でした。安田・高橋隊は、四谷仲町(現新宿区若葉町)の斎藤実内大臣を襲撃・暗殺した後、田中勝中尉が手配したトラックに乗って、杉並区上荻窪の渡辺邸を襲撃しました。
この時、わずか9歳だった娘の和子さんは、父親の暗殺現場を目撃しました。渡辺和子さんは長じて、岡山市のノートルダム清心女子学園の理事長となり、2012年、「置かれた場所で咲きなさい」が200万部を超えるベストセラーになった人でした。曽我さんは岡山市出身なので感慨深げでした。

しかし、実際にその辺りに行ってみると、マンションが建っていて、記念碑らしきものも一切ありませんでした。「歴史の風化とはこのことか」と思ってしまいました。
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