身辺雑記です。
ここ何年も芥川龍之介のような「ぼんやりとした不安」を抱えて生きています。生きていて張り合いがないといいますか、年のせいか将来の夢も野望もなく、ワクワクドキドキするようなこともなくなりました。不安神経症といえるほど深刻ではなく、「心が晴れやかになれない」といった感情が続いているのです。虚無感とも不条理感とも言っても良いかもしれません。
「だから、何だ」という話ですが、まあ、少しお付き合いください。先日、6歳になるpetit-filsのルカ君が泊りがけで遊びに来てくれました。ルカ君は、何でもないことに笑い転げて、本当に楽しそうでした。未来がない私に向かって「ぺぺ(私のこと)は将来何になりたいの?」と聞いてくれます。まさに無邪気です。自分もこういう時があったのかなあ、と思ったぐらいです。
邪気とは?
その時、分かったのです。無邪気とは、まさしく「邪気が無い」ということです。そう言えば、純真無垢な幼児に邪気がありませんよね。大人になって、特に、思春期になって邪気が生じて来るのです。邪気を辞書で調べると、「素直でない、ねじけた気持ち、性質。わるぎ」などと出て来ます。学校のこと、先生や友だち関係のこと、それに、いじめや勉強、進学のことなどでうまくいかないことが続けば、そりゃあ、人は拗ねたり、ねじけたりしますよ。
社会人ともなれば、裏切りや足の引っ張りや左遷などがあり、邪気が助長されます。
無邪気になれない?
となると、性格的に邪気が強い人と、さほどでもない人がいるとはいえ、邪気を無くすことは出来ません。恐らく、私は、遺伝と環境の影響で邪気が普通の人よりも強いので、こうして毎日、「ぼんやりとした不安」を抱えて生きているのでしょう。原因が分かりました。この邪気とは共存して生きていくしかありません。
そう考えると、ほんの少しだけ、気が楽になりました。邪気と共存、いやそれ以上に、邪気と共存共栄していくことにします。もう、今さら無邪気にはなれませんからね。
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