神田から東銀座までの小旅行で9777歩

三井本館(東京・日本橋) 雑感
三井本館(東京・日本橋)

 昨日は歩きましたねえ。夜遅く帰って、スマホの万歩計を見たら、9777歩でした。

 久し振りに東京の大都会に出たので張り切ってしまいました。日本橋からメインストリートの中央通りを使って東銀座まで。JRの駅で言うと神田から新橋ぐらいまでと距離にしてわずか4キロほどでしたが、途中で何度も座って休憩しました(笑)。はい、本日もまたまた、身辺雑記です。

特別展「魂を込めた円空仏」

 最初に向かったのは三井記念美術館です。先日、雑誌「サライ」の懸賞で、同館で開催中の特別展「魂を込めた円空仏」の招待券が奇跡的にも当選したことをこのブログに書きましたが、その円空展に出掛けたのでした。

 三井記念美術館には生まれて初めて訪れましたが、何と、泣く子も黙る三井本館の中にあったのです。1902年(明治35年)竣工。古代ローマ風のコリント式大列柱を備えた、見るからに圧倒される構えです。これまた以前のブログでも書きましたが、1932年の血盟団事件で三井財閥の総帥團琢磨が正面玄関で暗殺された所でもありましたね。

 だから、入館する時、少し緊張しました。美術館は本館7階にありますが、エレベーターがこれまた古い。悪い意味ではなく風流があって古式豊かです。壁も大理石で出来ているようで、贅沢の粋を尽くした建造物でした。

 円空仏も、生まれて初めて身近に拝観しました。あの粗削りの彫刻は写真では何度も拝見したことがありますが、やはり実物は違います。

特別展「魂を込めた円空仏」(三井記念美術館)
特別展「魂を込めた円空仏」(三井記念美術館)

 円空(1632~1695年)は、江戸前期の仏師です。美濃国(岐阜県)生まれなので、今でも飛騨高山の千光寺などの寺院に多くの作品が残っています。私も良く知りませんでしたが、真言宗や浄土宗といった特定の宗派の住職ではなく、全国を行脚して仏像を製作した人で、会場のパネルでは、円空は「山林修験僧」と書かれていました。生涯に12万体の仏像を製作したという説がありますが、現在残っているの5000余体です。

特別展「魂を込めた円空仏」の護法神立像(左2軀)と金剛神立像(右2軀)(三井記念美術館)
特別展「魂を込めた円空仏」の護法神立像(左2軀)=高山市の千光寺=と金剛神立像(右2軀)=高山市の飯山寺=(三井記念美術館)

 信仰を対象とした仏像さまに対して使う言葉ではありませんが、実に迫力がありました。もし、円空が12万体も製作したとしたら、1週間で1体とか凄い勢いで作り続けていたことでしょう。ノミで削った後が残って荒々しく、その荒々しさが何とも言えない迫力があります。展覧会のコピーに「一削入魂。」なんてありますが、まさしく、一彫り、一彫りに魂が込められている感じです。

特別展「魂を込めた円空仏」の観音菩薩(三井記念美術館)
特別展「魂を込めた円空仏」の観音菩薩(三井記念美術館)

 私が個人的に最も感動した仏像は、千手観音像でした。衆生済度のために観音様が千の手を使って救済するという有難い仏像です。実際、手腕は1000もありませんが、それでも50近くあり、その細かさはピカイチでした。残念ながら、この千手観音像の写真撮影は禁止されておりました。

 次に向かったのは、京橋の「ギャラリーくぼた」です。皆さん御存知の曽我さんの奥様(元山種美術館勤務)がグループ展に出品されていると、曽我さんから案内葉書を頂いたので覗いてみることにしたのです。

「日本植物画倶楽部展」(京橋・ギャラリーくぼた)
「日本植物画倶楽部展」(京橋・ギャラリーくぼた)

 三井記念美術館からギャラリーくぼたに向かう途中で、江戸時代開業の越後屋呉服店(現三越百貨店)や山本山海苔店や日本橋の高島屋や丸善の前を通ると歴史散歩となり、心がウキウキしました。特に、日本橋は「三井村」と言われているぐらいですから、三井系の建造物がいっぱいです。三井財閥の中興の祖といわれ、江戸に越後屋を進出させた松阪の商人三井高利という人物の偉大さをひしひしと感じます。呉服商から始まり、金融業、不動産業、商社などあらゆる業界に広げて大財閥を築き挙げた基礎をつくった人ですからね。その壮大さは、あのコリント式の建築物である三井本館を見れば分かります。

日本植物画倶楽部展

 さて、曽我さんの奥様のグループ展は「日本植物画倶楽部展」でした。私自身は初めて聞く名前でしたが、同倶楽部は1991年に結成され、北海道から沖縄まで全国に300人弱の会員がいるといいます。何の予備知識も偏見もなく鑑賞に行ったら、本当に吃驚しました。その精密さは写真と見まごうばかりで、まさにシーボルトもビックリです。

 受付の人に聞いたところ、ほとんどの方はプロではなく、いわゆる趣味で描いているらしいのですが、まさに玄人はだしです。4階の会場で、曽我さんの奥様の作品をやっと発見しましたので、係の人に「写真を撮っても良いですか?」と聞いてみました。そしたら、「良いですけど、SNSに挙げてはいけませんよ」と怒られてしまいました。

 でも、後で曽我さんに「証拠写真」をお送りして、「係の人からブログに掲載するのは止められました」と話したところ、曽我さんは奥様と相談されて、「本人はブログに載せても大丈夫です」との御託宣。そこで、堂々と拙ブログに掲載することに致しました(笑)。

曽我恵子作「オオイタビの雄花嚢」
曽我恵子作「オオイタビの雄花嚢」

  御覧の通り、素晴らしい作品です。水彩で描かれたようですが、茎の襞や種子まで実に細かく描写され、超人的な根気が必要とされます。恐らく、半年ぐらい掛かったのではないでしょうか。

元文化部長のN氏に18年ぶりに再会

 さて、途中、銀座イトーヤでペンの替芯を買って、まだ、時間があったので、ドトールで一服し、最後に向かったのは東銀座の時事通信社本社の13階にある「ラウンジ ヒビヤ」です。元文化部長のN氏と久しぶりに会うためでした。後で確かめたら18年ぶりぐらいでした。N氏は83歳になっていましたが、18年前とあまり変わっていないので吃驚しました。この会には文化部の後輩のW君とM君も駆け付けてくれました。もう一人、同期のS君とW先輩も呼んだのですが、生憎、参加出来ませんでした。このように場所を「ヒビヤ」にしたのは、不確定の人数でも予約しやすかったからでした。

東京・銀座4丁目「服部時計店」
東京・銀座4丁目「服部時計店」

 元文化部長のN氏とは1990年代初め、仕事で実に濃密で濃厚な時間を一緒に過ごしましたが、彼が文化部に在籍したのはわずか4年ほどだったと聞いて驚いてしまいました。そう言えば、個人的な話もあまり知らなかったので、色々と聞いてみると、何とN氏は東京大空襲を体験されていたというのです。10万人の死者が出たカーチス・ルメイ米空軍司令官による1945年3月の東京・下町の大空襲ではなく、その後、5月の山の手の大空襲の方ですが、母親に負ぶされて火の中を逃げ回り、多くの焼死体も目撃したそうです。

 このほか、当時の後輩で退社後、米ボストンで交通事故で若くして亡くなったAさんの秘話や、このブログでは書けないような文化部時代の懐かしい話で盛り上がりました。人間、健康で長生きすることに優るものはありません。再会を期しました。

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