先月、芸能情報業界のドンであるX氏と、東京・日本橋室町にある明治2年創業の老舗蕎麦屋「室町砂場」で秘密の会談をしたことをこの渓流斎ブログに書きました。
室町将軍
そしてまた、この日本橋は、コレド室町や三越百貨店など三井系の建物が林立し、「三井村」になっていることも書きました。さらに、戦後まもなく影の支配者(フィクサー)として「室町将軍」と呼ばれた三浦義一(1898~1971年)が日本橋室町の三井ビル内に事務所を構えていたことも書きました。
江戸時代、日本橋は商業の中心地で、魚河岸問屋があり、東海道五十三次の出発点でもありました。日本橋は、浮世絵にも描かれていますが、三井財閥の祖、越後屋の発祥地ですから、三井村となり、現在も三井不動産が再開発しているのは当然の成り行きなのかもしれません。
團琢磨
ただ、一つだけ、書き忘れたことがありました。この日本橋の三井本館は、昭和7年(1932年)3月、三井合名理事長の團琢磨(1858~1932年)が暗殺された歴史的現場でもありました。いわゆる血盟団事件です。「忘れていた~」ということで、先日、東京駅近くのタワービル内で開催された甲南大学の講座を受講する前に慌てて、そして、わざわざ三井本館の写真を撮りに行きました。日本銀行本店の隣りでした。前回はJR神田駅から歩いて行きましたが、今回は東京駅から歩いて行きました。三井本館は、東京駅と神田駅のほぼ中間で、いずれも信号待ちも含めて歩10分ぐらいでしょうか。
三井広報委員会のHPによると、当時、三井の重役のほとんどが本館裏手の金門から出入りしていたのに、團琢磨理事長は「自分は何も悪い事はしていないから」という理由で護衛もつけず、防弾チョッキも身に着けず、人通りの多い本館南側の三越寄りの玄関から出入りしていたといいます。暗殺者は血盟団員・菱沼五郎、22歳。弾丸は團琢磨の心臓に命中し、医務室に運ばれたものの間もなく死亡、享年75。
ポール・ブルーム
もう一人、日本橋の三井本館に関係していた歴史的人物がおりました。米情報機関CIAの初代東京支局長ポール・ブルームです。戦後まもなく、CIA東京支局は、三井本館2、3階に置かれていたGHQ外交局(DS)内の316号室にあったといいます。これら機密情報を発掘したのが「秘密のファイル」を著わした元共同通信論説副委員長の春名幹男氏です。以下も主に春名氏の「秘密のファイル」(新潮文庫)からの引用です。
ブルームは、秘密諜報員ですから実に奇々怪々な伝説的な人物です。1898年、父親が貿易商をしていた関係で横浜生まれ。父アンリはユダヤ系フランス人で、仏人民戦線のレオン・ブルム首相とは遠縁に当たるといいます。ポール・ブルームは米国の名門エール大学を卒業し、第一次世界大戦では志願して欧州戦線で戦い、除隊後はパリ近くに住み、貿易会社に勤めたり、フリーランスの記者になったりし、ジャン・コクトーやヘミングウェイらと交遊していました。1940年、ドイツ軍のパリ入城で米国に逃れ、コロンビア大学で日本語を学び直したといいます。その際、フランス文学を学んでいた18歳のドナルド・キーンに「日本文学をやった方が君のためになる」と強引に勧めたのが40歳を過ぎたブルームでした。ブルームがいなければ、偉大な日本文学者ドナルド・キーンは存在しなかったことになります。
ブルームは、日米開戦で、CIAの前身となる米戦略情報局(OSS)に身を投じ、戦後、CIAの初代東京支局長として「里帰り」しますが、再会したドナルド・キーンさんはブルームがCIA要員だったことは知らなかったようでした。
壁の穴
この他、ポール・ブルームに関する逸話として、和風スパゲティを考案した「壁の穴」があります。「壁の穴」は1953年、ブルームの東京・渋谷の自宅で執事を務めていた成松孝安氏が退職する際にもらった退職金など100万円を元手にして新橋の田村町に開業した店でした。パスタ店は当時は珍しく、帝国ホテルなどでしか食べられず、高かったのですが、ブルームから言われる通り、100円でスパゲティが食べられる店にしたところかなり繁盛しました。「壁の穴」は現在、チェーン店化して全国展開していることは皆さん御存知の通りです。
横浜開港資料館
さらにもう一つ、ブルームは大変な蔵書家で、特に、錦絵、瓦版、古地図、絵葉書など日本関係の書籍が6000点以上あったといいます。当初、ブルームは母校のエール大学図書館に寄付つもりでしたが、ブルーム来日情報を聞きつけた横浜市職員が熱心に説得して、ついに新しく開館する「横浜開港資料館」の目玉として「ブルーム・コレクション」を寄贈してもらうことになりました。横浜開港資料館は1981年6月に開館し、ブルームはその開館式に出席しましたが、その年の8月にニューヨークで心臓発作で亡くなりました。享年83。
フランスにお住まいの私の日本人の友人Aさんは、フランス語で幕末の日仏交流文化史を中心にした論文で今年、パリの国立社会科学高等研究院で博士号を取得しましたが、そう言えば、彼女が横浜開港資料館に通っていたことを思い出しました。彼女も知ってか知らぬか、恐らくブルーム・コレクションも参照していたと思われます。何か、ミッシング・リングが繋がったような気がして、これまた縁の深さを感じた次第です。
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