11月9日(土)、東京・早稲田大学で開催された第62回諜報研究会に参加して来ました。先月は所用で欠席したため、久しぶりの参加でした。2人の講師が登壇し、共通テーマは「第二次世界大戦を挟む財界人、インテリジェンス関係者の足跡」でした。
正直申しますと、お二人とも博覧強記のせいか、かなりの早口でメモが全く追い付かず、当初、「文字」にすることを諦めました。とはいえ、浩瀚なレジュメを配信してくださったこともあり、後で読み返すと、何とかでっち上げられるかもしれない、と思い直しました。まあ、随分と不謹慎で不遜な発言だこと!
「日中戦争初期の北支那方面軍内経済委員会による華北『経済開発』の実態」
最初に登壇されたのはインテリジェンス研究所事務局長で鎌倉女子大学講師の正田浩由氏で、タイトルは「日中戦争初期の北支那方面軍内経済委員会による華北『経済開発』の実態」でした。テーマからしてかなり難解です。でも、主要人物(キーパースン)は、昭和初期の関西財界の支柱・平生鉢三郎(ひらお・はちさぶろう、1866~1945)で、この平生については以前、正田氏の講演を聴いておりましたので、予備知識はありました。2022年10月26日の渓流斎ブログに記事を書いております。
この記事からの孫引きになりますが、平生鉢三郎は、もともとは軍縮論者でしたが、大阪の陸軍第四師団(師団長は阿倍信行から寺内寿一)との交流で、取り込まれる形で親軍派に転向し、最後は「東条内閣の財界での最大の支柱」になった人でした。私自身は、平生自身について、神戸の甲南学園の創立者という「教育者」としてのイメージが強かったので、意外だったことも2年前のブログに書きました。東京駅近くの高層ビル内に甲南学園の東京オフィスがあり、そこで開催される講座に今でも私はよく参加していますが、オフィス内には平生鉢三郎のパネル写真や関連書籍が所狭しと展示されています。「日本軍に協力的だった関西財界人」との説明は一切ありませんが…。
扨て、今回は、親軍派に転向した平生がどんな経済政策に取り組んだのかという具体的なお話でした。第4師団長寺内寿一との関係から、寺内が北支那方面軍の司令官に就くと、当時、日本製鉄会長だった平生は北支の経済開発政策の最高顧問に迎えられるのです。北支は歴史用語ですが、北平市(今の北京)を含む華北地方のことです。1937年7月7日の盧溝橋事件から始まった日中戦争で日本が北支を占領したため、平生はいわばその占領地の経済政策の陣頭指揮を任されたことになります。
まず、日本の傀儡政権である中華民国臨時政府行政委員会委員長の王克敏を会長に据えて、平生が副会長に控えた「日華経済協議会」が組織されますが、実際の華北経済政策は、平生が委員長を務め、内地から派遣された日本人の官僚が参加した「経済委員会」が事前に方針などを決定していたといいます。
その方針とは、おおまかに言えば、満洲だけでなく、華北の工業を推進すれば日本の工業が衰退するので、華北ではむしろ農業(綿花、小麦、羊毛、亜麻、塩など)を促進させるということでした。しかし、内地の農業に影響を与えない程度ということで、あくまでも日本の農業が優先、というのが平生の考えでした。
正田氏による、内部抗争など詳細な分析は茲では触れられませんが、正田氏は長年、平生鉢三郎研究に当たり、平生の日記を一次史料として使ったといいます。かつての「平生日記」は甲南学園内で公開されてはいましたが、貸し出しやコピーは許可されず、正田氏は腱鞘炎になるほど手書きで写していたそうです。大変失礼ながら、これが正田氏の講演の中で一番印象に残ってしまいました。(ただし、「平生日記」はその後、出版化され、2019年に全18巻が完結しました。甲南学園の東京オフィスにもありました!)
「帝国陸軍インテリジェンス・オフィサーと戦後日本~冷戦期の小野寺信、土居明夫、甲谷悦雄を中心に~」
続いて登壇されたのは、澤田次郎拓殖大学政経学部教授で、タイトルは「帝国陸軍インテリジェンス・オフィサーと戦後日本」でした。副題に「冷戦期の小野寺信、土居明夫、甲谷悦雄を中心に」とあるように、戦時中、主に対外情報収集活動に従事していた3人の陸軍将校が、戦後も引き続き、旺盛な言論活動を行い、時の首相のブレーンになったりして影響を与えた実態を明らかにしておりました。
こちらも、メモが全く追い付かなかったので、単なる「あらまし」になることをお許しください。
最初の小野寺信少将(1897~1987年)は、戦時中、ストックホルム駐在武官を務め、独ソ開戦やヤルタ会談密約を打電した情報将校です。小野寺に関しては、岡部伸著「『諜報の神様』と呼ばれた男 連合国が恐れた情報士官・小野寺信の流儀」(PHP研究所)、同著「消えたヤルタ密約緊急電」(新潮選書)などが出版されています(ただし、小野寺に関しては、神話化され、過大評価されていると主張する学者も多くいます)。その小野寺は敗戦後、戦中から縁があったスウェーデンとの貿易に従事しながら、日本スウェーデン協会の理事などを務めました。その間、「中立国のむづかしさ」(「文藝春秋」1953年8月号)などを発表し、非武装中立では無理だという安全保障問題に関する言論活動を行い、吉田茂首相らに影響を与えました。
二番目の土居明夫中将(1896~1976年)は、戦時中、駐在ソ連大使館付、参謀本部ロシア課長、関東軍情報部長などを務めた情報将校です。戦後は南京政府国防部顧問となり、大陸問題研究所を主宰し、機関誌「大陸問題」を発行します。研究所には、参謀本部ロシア課長などを務めた浅井勇元中佐ら多くの情報将校が集結し、いわば元情報将校の居所となりました。「大陸問題」誌には日立や大手百貨店など大企業からの広告も出稿していました。また、雑誌だけでなく「米ソ戦と日本」など多くの単行本も出版していました。土居はこれら出版物を使って大いに言論活動を展開し、理想主義を排した現実主義路線から核武装論まで主張、佐藤栄作首相のアドバイザーも務めました。学生運動が盛んだった1950年~70年代でしたから、土居らの言論は極端な反動主義として注目されませんでしたが、21世紀に入って、昨今のウクライナやガザ、中東での戦争を目の当たりにして、一部でこれら土居の現実主義路線は見直されているようです。
三番目の甲谷悦雄大佐(1903~1993年)は、戦中に陸軍参謀本部ロシア班長、在ソ連、ドイツ駐在武官補佐官を務め、戦後は公安調査庁参事官となったロシア通の人です。「国際共産主義の沿革と現状」(1959年、時事通信社)などの著作があります。
このように、戦時中に情報将校として活動していた帝国軍人は、戦後、警察予備隊(自衛隊)の幹部になったり、大陸問題研究所などシンクタンクを創設して言論活動を展開したり、公安調査庁や内閣調査室の幹部になったりして、引き続き諜報活動を続けていたことになります。
澤田教授も締めくくりとして、「明治期以来の帝国陸軍の対ロシアや対中国のインテリジェンス(諜報活動)の伝統は、敗戦後の占領期はもとより、1952年4月の独立以降も消えることなく、水脈を保っていた」などと発言されていましたが、私も十分に納得のいくものでした。
※メモが追い付かなかったので、正確な発言の引用ではありません。
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