今年2024年は「ゾルゲ事件」の首謀者リヒヤルト・ゾルゲと尾崎秀実が治安維持法、国防保安法、軍機保護法違反などで1944年11月7日に処刑されてちょうど80年ということで、東京の拓殖大学文京キャンパスで記念国際ワークショップが11月7日と8日の2日間に渡って開催されました。主催は、明治時代に上海に創立された東亜同文書院(里見甫、中西功らの出身大学)の後身に当たる愛知大学と尾崎=ゾルゲ研究会(加藤哲郎代表)などです。
国際ワークショップですから日本人の研究者だけではなく、ロシア(「ゾルゲ・ファイル」を編集出版したアンドレイ・フェシュン・モスクワ大学教授)と中国(蘇智良上海大学教授ら多数)からも専門家が参加しましたが、ほぼ全員、日本語にかなり精通しておられたので驚かされました。中国語の通訳を担当した人も東北大学大学院の中国人留学生らで、これだけ優秀な人材を揃えて準備された主催者と事務局の苦労が垣間見えました。何しろ、講演の時間の変更やレジュメがメールで送られて来たのは開催初日の深夜でしたからね。
私は初日の7日は会場に足を運んで参加しましたが、8日は所用がありまして、一部だけオンラインで参加しました。ということで、この記事は全体のあらましなどに触れることは出来ず、単に個人的に興味を持ったテーマに関する感想文に終わってしまうことをお許しください。もし、全研究発表の梗概を知りたい方は、近いうちに「尾崎=ゾルゲ研究会」のHPに掲載されるようですので、そちらをご参照ください。
独ソ開戦情報に四つのルート
私が一番興味深く拝聴したのは、初日に田嶋信雄成城大名誉教授が発表された「重慶からの独ソ開戦情報」でした。1941年6月22日に開始される独ソ戦情報については、ゾルゲ諜報団からだけではなく、さまざまなルートからモスクワに伝えられましたが、中国の重慶や上海にいたドイツ人がソ連のスパイとして情報を提供していたとは全く知りませんでした。田嶋氏によると、情報ルートは以下の四つあったそうです。
①ゾルゲ諜報団からソ連赤軍参謀本部情報局へのルート⇒スターリンや赤軍参謀本部情報局長ゴリコフらの「独ソ開戦はニセ情報」という頑迷な先入観によって無視された。
②1941年初頭に上海に派遣されたNKVD(内務人民委員部)のザルービンと、反ヒトラーで1933年12月に中国に渡り、蒋介石の軍事顧問になったシュテンネス(1939年、NKVD上海駐在員ティシュチェンコのリクルートでヒトラー関連情報提供し、ソ連側スパイに)に代表されるNKVDルート⇒6月20日、シュテンネスは「ヒトラーが対ソ戦の準備を完了した」との極秘情報をモスクワに伝達するも生かされなかった。
③(第2次国共合作中)蒋介石から中国共産党(周恩来→毛沢東)を経由して、コミンテルン書記長ディミトロフに伝えられたコミンテルン・ルート⇒外務相モロトフにもみ消された。
④重慶駐在ソ連大使パニューシュキンからモロトフに至る外務人民委員部⇒このルートはほとんど麻痺しており、モロトフに正確な情報が伝わったのは独ソ開戦後のことだった。
この四つのルートを敷衍してみますと、①の赤軍参謀本部情報局は現在、ロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)に引き継がれている軍のルートです。②のNKVD(内務人民委員部)は、その前身が秘密警察(GPU)で、ソ連時代はKGBとして名を轟かせた警察のルートです。ロシアになった現在、連邦保安庁(FSB)と対外情報庁(SVR)に引き継がれています。③のコミンテルンは共産党の国際組織のOMC(コミンテルン国際連絡部)ですから、党ルートです。④の外務人民委員部は、日本で言えば外務省ルートみたいなものです。
こうしてみると、ゾルゲらが活動していた1920年代から40年代にかけて、ソ連は、世界中に「軍」と「警察」と「共産党」と「外務省」の四つのルートを使って情報網を張っていたことが分かります(お互いに横の繋がりを持つことは禁じられていました)。
この中で、ゾルゲだけではなく、かなりのドイツ人がソ連のスパイになっていたとは意外でしたが、1920年代から30年代にかけて、ドイツと中国はかなり密接な関係があったといいます。田嶋名誉教授によると、中国国民政府は1928年からドイツ軍事顧問団を受け入れ、36年には中独借款条約が締結され、中国はドイツから大量の武器を輸入し、抗日戦争の準備を進めたといいます。それが36年の日独防共協定締結より、軍事顧問団の撤退など中独関係は引き裂かれた経緯があります。
ゾルゲ情報が過大評価か?
ところで、ソ連はこれだけのルートで情報網を張り巡らせていたわけですから、ゾルゲ情報はクレムリンにとって数多の情報網から入って来る一つに過ぎず、後世に語られるほど過大評価されていなかったと私は思います。(現にスターリンはゾルゲを信用していなかったようですから)
しかも、「ゾルゲ・ファイル」を編集出版したフェシュン・モスクワ大学教授と同書を翻訳した名越健郎拓大教授によると、赤軍参謀本部情報局は東京にゾルゲだけではなく、他に少なくとも6人のスパイを在日独大使館や米国大使館に送り込んでいたといいます。また、ゾルゲは日本の気候が合わず、常に外国人は特高から監視されていたことから日本を好きになれず、むしろ自由に行動が出来た上海租界の方がよかったようです。尾崎=ゾルゲ研究会の代表の加藤哲郎氏も「ヌーラン事件がなかったら、ゾルゲは中国に留まっていたかもしれない」と発言するほどでした。
来年はゾルゲ生誕130周年
さて、ゾルゲは1895年10月4日、アゼルバイジャン生まれですから、来年はゾルゲ生誕130周年という節目の年に当たります。フェシュン・モスクワ大教授は、来年、モスクワで盛大な記念式典が挙行され、プーチン大統領も参列するかもしれないと発言しておりました。プーチン氏は、スパイ・ゾルゲにあこがれてKGBに入ったとも言われ、長引くウクライナとの戦意高揚のためにゾルゲ式典を利用したいという思惑があるのかもしれません。そういった意味で、ゾルゲはまだ生きている感じがしました。
今後、中国やロシアでもっともっと情報公開が進めば、意外な新発見が見つかるかもしれません。
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