【現代史】ポツダム宣言受諾、陰の立役者吉田主馬

1945年9月2日、米戦艦ミズーリ号で降伏文書に調印する梅津美治郎参謀総長 Wikimedia Commons 歴史
1945年9月2日、米戦艦ミズーリ号で降伏文書に調印する梅津美治郎参謀総長 Wikimedia Commons

 

石黒賢のファミリーヒストリー

 先日放送されたNHK「ファミリーヒストリー」の俳優石黒賢さん編を何気なく見ていたら、驚くことばかりでした。彼の父親で日本人初のプロテニス選手だった石黒修さん(2016年、80歳没)ならよく存じ上げておりましたが、私はほとんどテレビドラマは見ないので、石黒賢さんは、お名前を知っている程度だったからです。

榎本武揚と縁戚

 しかしながら、驚きの連続でした。父方も母方も「偉人」ばかりだったからです。まず、彼の父方の高祖父に当たる石黒千尋は加賀藩士で、藩校の明倫堂で国学の教授を務め、開国を勧める著書まで出版しておりました。その子息、賢さんの曾祖父に当たる石黒五十二は、大学南校(帝大の前身)を出て英国に留学し、土木技師になった人で、スコットランドの橋まで設計した人でした。五十二の妻寿満の父榎本武與は、幕末に五稜郭に立て籠もった榎本武揚の兄に当たる人なので、石黒家と榎本家は縁戚関係があったのです。

 五十二の子息で、賢さんの祖父に当たる石黒九一は、京都帝大を出て三菱電機長崎に就職し、タービン発電を研究する技師でした。昭和20年8月9日、長崎原爆投下で被爆しますが、奇跡的に助かります。それは、九一の四男で賢さんの父に当たる修さんも同じでした。当時8歳でしたが、爆心地と間に366メートルの金毘羅山があったため、放射能まで遮られ、大きな被害を免れたといいます。

英国風のマナーまで身に着けた吉田主馬

 私が一番驚いたのは、賢さんの母方の祖父に当たる吉田主馬です。父修さんと結婚した母絢子さんの父親です。東京帝大法学部で国際法を学び外交官になりますが、海軍書記官に転じます。その後、安保清種海軍相の計らいで名門英ケンブリッジ大学トリニティーカレッジに留学し、英国風のマナーまで身に着けます。それが後に役に立ちます。

 アジア太平洋戦争の敗戦が濃厚になった昭和20年7月、連合国軍はポツダム宣言を突き付けます。この中で、連合国側が提示した天皇制の存続に関しては、天皇は連合国側に「subjected to~」と、極めて曖昧に書かれていて、この文面を「隷属する」と解釈するのか、「制限される」と解釈するのか政府内で喧々諤々の論議になりました。「国体護持」(天皇制維持)を金科玉条とする政府にとって、大問題だったのです。そこで米内光政海相に一人呼ばれたのが、この石黒賢さんの母方の祖父吉田主馬でした。英語の微妙なニュアンスまで習得していたからです。吉田は「一日考えさせてください」と応じたところ、米内海相からは「駄目だ。今すぐ答えろ」と言われ、吉田は「その文面でしたら、連合国側は天皇制を廃止する意向はないと思います」と答えたといいます。これが、ポツダム宣言受諾につながる大いなるきっかけになったことは間違いないようです。

降伏全権団の一員だった

 吉田主馬は、終戦後の8月19日、緑十字機に乗ってマニラまで行った参謀次長河辺虎四郎中将を代表とする日本の降伏全権団の一人(海軍書記官として国際法担当)だったことを番組で紹介された時は、本当に驚きました。9月にこのブログで、緑十字機のことを書いたばかりだったからです。

 ブログに色々と書いていると、何か不思議と繋がりが出て来ます。

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