入谷より雑司ヶ谷の鬼子母神の方が歴史が古かった

雑司ヶ谷鬼子母神堂 歴史
雑司ヶ谷鬼子母神堂

 6月1日(土)、東京・目白の学習院大学で開催された第6回尾崎=ゾルゲ研究会に参加した後の帰り道、JR山手線の目白駅から電車に乗ろうと思い、信号待ちしていたら、「鬼子母神➩」という道案内の看板が目に入りました。「あ、この近くだったのか」ということで、行ってみることにしました。まだ午後4時過ぎでしたし、私の趣味は神社仏閣巡りでしたからね。

 最近は、年のせいか、めっきり足取りも重くなりました。軽快にスキップするような歩き方はもう遠い昔の話です。右手に学習院大学のキャンパスを見ながら精一杯速足で進んで行きましたが、なかなか次の「鬼子母神➩」の看板が出て来ません。いつの間にか、地下鉄東京メトロ副都心線の雑司ヶ谷駅まで着いてしまいました。仕方がないので、またスマホの「Googleマップ」の登場です。見たら、ちょっと行き過ぎていました。少し戻ると高架下に都電荒川線が通っており、その線路沿いを歩いて鬼子母神前駅まで行き、そこからやっと5分ほどで雑司ヶ谷鬼子母神堂に到着しました。

 鬼子母神(きしもじん)とは、仏教では(1)如来(2)菩薩(3)明王に続く(4)天部に属する「訶梨帝母」(かりていも)の別名です。インドの鬼神の妻ハーリーティーのことで、鬼なので人間の子どもをさらって食べる恐ろしい存在でしたが、お釈迦様が彼女の末子を隠して、子どものいない辛さを教えて改心させ、それ以降仏教の守護神になったといいます。彼女は子沢山だったことから、安産や子育て祈願として日本でも昔から信仰を集めています。

雑司ヶ谷鬼子母神堂(案内看板)
雑司ヶ谷鬼子母神堂(案内看板)

 鬼子母神と言えば、すぐ、太田南畝の有名な川柳「恐れ入りやの鬼子母神」が思い浮かび、朝顔市でも有名な入谷の鬼子母神(真源寺=法華宗本門流)の方が歴史が深く格式があるのかと思っていましたら、この入谷の鬼子母神の創建は、江戸時代の万治2年(1659年)、雑司ヶ谷鬼子母神(法明寺=日蓮宗)は、室町時代の永禄4年(1561年)で雑司ヶ谷鬼子母神の方が歴史があったんですね。初めて知りました。

 雑司ヶ谷鬼子母神のホームページからその由来と歴史を引用しますと以下の通りです。

当山におまつりする鬼子母神(きしもじん)のご尊像は室町時代の永禄4年(西暦1561年)5月16日、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土(文京区目白台)の地の辺りより掘りだし、星の井(清土鬼子母神〈別称、お穴鬼子母神〉境内にある三角井戸)あたりでお像を清め、東陽坊(後、大行院と改称、その後法明寺に合併)という寺に納めたものです。
東陽坊の一僧侶が、その霊験顕著なことを知って、ひそかにご尊像を自身の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされています。

その後、信仰はますます盛んとなり、安土桃山時代の天正6年(1578年)『稲荷の森』と呼ばれていた当地に、村の人々が堂宇を建て今日に至っています。
現在のお堂は、本殿が寛文4年(1664年)徳川4代将軍家綱の代に加賀藩主前田利常公の息女で、広島藩主浅野光晟(みつあきら)に嫁した自昌院殿英心日妙大姉の寄進により建立され、その後現在の規模に拡張されています。
昭和35年に東京都有形文化財の指定を受け、昭和51年から54年にかけ、江戸時代の姿に復する解体復元の大修理が行われました。
また、平成28年7月には国指定 重要文化財になりました。
鬼子母神は安産・子育(こやす)の神様として広く信仰の対象となっていますが、もともとの来歴には深いいわれがあります。

雑司ヶ谷鬼子母神堂HPより

  これだけあれば、十分に御理解頂けたかと存じます。安産、子育祈願には是非訪れてください。

 境内には「上川口屋」という駄菓子屋さんのようなお店がありました。看板を見たら、創業1781年と書かれているので吃驚です。江戸時代で安永10年か天明元年に当たります。偶然にも53人(成人したのは28人)も子どもをもうけた子沢山で有名な11代将軍徳川家斉の時代です。

雑司ヶ谷鬼子母神堂内 「上川口屋」(創業1781年)
雑司ヶ谷鬼子母神堂内 「上川口屋」(創業1781年)

 フランス革命が1789年ですから、まだフランス革命が起きる前からの創業です。1781年は、25歳のモーツァルトが大活躍し、57歳のイマヌエル・カントが「純粋理性批判」を出版した年でもあります。

岡部長織揮毫の「戦捷紀念碑」

 このほか、境内には「戦捷紀念碑」なるものがありました。何かと思って見てみたら、日露戦争の戦勝記念碑でした。「明治三十九年五月建設」で、揮毫は「従三位子爵岡部長職」とありましたので、これまた吃驚仰天です。冷静さを欠いて、写真を撮って来るのを忘れてしまいました。すんません。岡部長職(ながもと)は旧岸和田藩第13代、最後の藩主です。その三男長挙(ながたか)は、朝日新聞社の創業者村山龍平の長女藤子と結婚し、村山家の婿養子となり、朝日新聞の二代目社主になった人ですから、業界人の私はピンと来たのでした。

 岸和田藩や岡部家のことも書きたかったのですが、長くなるのでこの辺でやめておきます(笑)。

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