高祖父も入隊した応変隊とは? 幕末の箱館戦争にも参戦

「久留米市史」第3巻から「戊辰戦争」(21ページ) 歴史
「久留米市史」第3巻から「戊辰戦争」

 3月24日付の《渓流斎日乗》の記事「東京・南麻布の有栖川宮記念公園にまつわる話=30年ぶりに旧友と再会もしました」の中で、私の高祖父に当たる高田寛蔵正行(1844~1921年)が久留米藩の別動隊「応変隊」に入隊し、幕末の戊辰戦争に参加した話を書きました。

 私の曾祖父に当たる高田庄太郎(1870~1948年)が書き残した「高田家年代記」には、この応変隊について、何も詳しい記述がなく、それどころか、高祖父がどうやって激戦を潜り抜けて、郷里の久留米藩に戻って来たのか、その経緯についても何も書いていないのでずっと気になっていました。何しろ、応変隊は、北海道の箱館戦争にまで参戦したというのですから、よくぞ生きて返ってきたと思います。戊辰戦争時、高祖父高田寛藏正行は満24歳の若者です。曾祖父庄太郎は、寛藏正行の長男で戊辰戦争の2年後に生まれています。

「久留米市史」

 さて、気になっていた応変隊について、早速調べてみました。運が良いことに、亡父浩が生前、高田家のことを調べていて、結構、関連文献も購入していました。参考になったのは、「久留米市史」第3巻(ぎょうせい、1985年3月31日発行)です。

「久留米市史」第3巻(ぎょうせい、1985年3月31日発行)
「久留米市史」第3巻(ぎょうせい、1985年3月31日発行)

 「久留米市史」の中で、応変隊については、こんなことが書かれています。

応変隊は、戊辰戦争中の慶応4年(1868年)6月(同年9月8日から明治元年)、久留米藩の佐幕派を大量処罰して藩政改革を行った攘夷派の水野正名(まさな)の親衛隊的な存在として創設された。足軽の次男、三男だけでなく、強壮な農商家の子弟の入隊も認めたのは長州藩高杉晋作らの奇兵隊を見習ったもので、500人の隊員が選ばれた。総督は、水野の義弟である水野又蔵が就任し、南薫御殿跡を屯所とした。洋画家青木繁の実父で久留米藩士だった青木廉吾も隊員だった。久留米藩兵は、江戸東京の上野での彰義隊や奥羽追討で参戦する一方、英国式の調練を受けた応変隊は、箱館戦争で榎本武揚率いる幕府軍を激戦の末これを退け、松前城などの攻略に貢献した。(数カ所から抜粋、補筆)

「久留米市史」第3巻(ぎょうせい、1985年3月31日発行)

 へ~そうだったんですか。箱館戦争といえば、新選組副長の土方歳三が戦死した所です。高祖父が土方歳三と一戦を交えていたと夢想すると、興奮して眠れなくなります(笑)。でも、奇兵隊や新選組は誰でも知っていても、応変隊は、歴史に埋もれてしまって、今や知る人は関係者かほんのわずかです。応変隊をつくった水野正名(1823~72年)にも同じ事が言えます。彼は、久留米藩家老水野正芳の子息で、渓雲斎と号したらしいですね。私は渓流斎と号してますから奇遇を感じます(笑)。随分、波瀾万丈の生涯を送った人で、最期は、明治4年に大楽源太郎を匿ったかどで逮捕され、翌年、弘前で獄死しています。49歳没。大楽源太郎(だいらく・げんたろう、1832~71年)というのは、長州藩の志士で、高杉晋作の奇兵隊が挙兵したことに呼応して「忠憤隊」を組織して参加。明治2年に大村益次郎暗殺事件に連座して幽閉され、脱走しましたが、その2年後、潜伏先の久留米で暗殺されました。39歳没。

 正直言いますと、私のご先祖さまも面識があったと思われる水野正名も、彼が投獄される起因となった大楽源太郎も全く知りませんでした。我ながら恥ずかしい限りです。私の曾祖父庄太郎がもう少し詳しいことを書き残してくれていたら、と思わざるを得ません。

 応変隊は、正規軍の藩兵とは違って、足軽の次男、三男が集められたようですが、細かいことを言えば、私の高祖父高田寛藏正行は、足軽ではなく、その少し上の久留米藩御舟手役の下級武士で、しかも、次男、三男ではなく、嫡男(長男)でした。何故、彼が正規軍の藩兵に加わらず、応変隊に参加したのか不思議です。思うに、幕末の久留米藩は、佐幕派から尊皇攘夷の新政府軍に転向する激動期で、オセロゲームのように一気に転換したことも原因だったかもしれません。もっとも、高祖父高田寛藏正行は、久留米藩士平嶋家から14歳で婿養子で高田家に入り、35歳で妻おかのと死別し、48歳で、福岡県怡土村の笠家の養父になった人なので、あまり高田家の嫡男にそれほど拘っていなかったかもしれません。

 この応変隊に入る前の高祖父寛藏は、曾祖父庄太郎が書き残したものによると、長州征伐の戦いに参加し、負けて馬関(下関)海峡を泳いで渡って逃げ帰ったといいます。これは、恐らく、慶応2年(1866年)の第2次長州征伐の小倉口の戦いに、幕府の命で久留米藩も参戦しているので、このことを指していると思われます。この時、武士と農民の混成軍である長州藩の奇兵隊の働きに肝をつぶしたことでしょう。その2年後、水野正名が奇兵隊を参考に応変隊を創設することになるのです。

 悪評ふんぷんだった応変隊

 ただ、西日本新聞(電子版)の2018年3月2日付の記事「久留米藩『応変隊』足跡追う 奇兵隊がモデル武士農民混成部隊 箱館戦争で華々しい戦果 地元では乱暴狼藉に悪評」によると、地元久留米では、殺生が禁じられた池の魚を捕って食べたり、神仏習合だった境内の仏像の首を切り落としたりして、応変隊への悪評が目立ったといいます(「久留米人物誌」)。願わくは、私のご先祖さまで、有栖川宮熾仁・東征大総督から名刀「兼氏」を授けられた高祖父高田寛藏正行が、悪さをした一味ではなかったことをお祈りしたい気分です。。。

 

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