S氏はケインズと魯山人のファン
山中湖別荘に招待してくださったS氏は、経済アナリストと骨董収集家という二つの顔を持っています。彼が尊敬する経済学者は、英国のジョン・メイナード・ケインズで、陶芸家は、書家・美食家でもある北大路魯山人です。「二人とも1883年生まれなんですよ」と嬉しそうに話します。
S氏の話についていくために、この二人について、私自身、生半可な知識はありますが、もっと知りたくなりました。魯山人は、また機会を改めることにして、今回はケインズの話です。
「平和の経済的帰結」
ケインズの代表作が「雇用、利子、貨幣の一般理論」(1936年)ですが、私は昔、挑戦しましたが、当時は経済学にさほど興味がなくて、見事に挫折しました(S氏は原文で読破したそうです)。そこで、今回は彼の衝撃的な出世作として名高く、今や古典となっている「平和の経済的帰結」(1919年)を読み始めています。第1次世界大戦後、敗戦国ドイツの賠償を巡って開催されたパリ講和会議で、ケインズは英財務省の公式代表の一員でした。その際、ドイツに莫大な賠償金を課すヴェルサイユ条約があまりにも酷過ぎて、今後に禍根を残す、とケインズは異議を唱えて辞表を叩きつけ、即座に本書を書き上げたと言います。いわば内幕暴露本です。歴史は、ケインズの「予言」通りとなり、ドイツでは国家社会主義のナチスが台頭し、第2次大戦が勃発してしまいます。まさに、現代人にとっても必読書と言って良いでしょう。
気になる翻訳家
でも、今回、渓流斎ブログで取り上げる話は、このケインズの「平和の経済的帰結」のことではなく、どういうわけか、この本を「新訳」として昨年出版した翻訳家の山形浩生氏に注目してしまいました。個人的に、私が、山形浩生氏を知ったのは、世界的ベストセラーになって、日本でも2014年12月に出版されたフランスの経済学者トマ・ピケティの「21世紀の資本」(みすず書房)=写真=の翻訳者の一人としてです。もう11年前ですが、私も無理して読破しましたが、訳文がこなれていて読みやすかったことを覚えています。
「経済のトリセツ」
そこで、この山形浩生氏のことが気になって調べてみたら、ケインズは、「平和の経済的帰結」だけでなく、あの「一般理論」まで翻訳していたのです。しかし、もともと経済学が専門ではなく、麻布学園から東大理一~東大大学院工学系研究科修士を出た理系で、特に、ウィリアム・バロウズらSFに興味があり、多くのSFの翻訳書を出している人だったことが分かりました。1964年生まれですから現在、61歳です。この山形氏は、御自分のブログ「経済のトリセツ」を開設していて、自分で翻訳した作品を惜しげもなく「無料」で公開していたのです。
チャンドラーの名作
この中で、私が注目したのが、レイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」です。私は、SFもミステリーもハードボイルドもほとんど読みませんが、この本だけは、昔、若い頃に読んでハマりました。名探偵フィリップ・マーロウが愛飲したギムレットを、真似して銀座のバーで注文したりしました(笑)。
この「長いお別れ」は、山形氏は「古典的な清水俊二訳、文学者の思い入れ溢れる村上春樹訳、ミステリ翻訳の名手とされる田口俊樹訳と三種類以上もある」といいます。山形氏はこの訳書の数の多さが気になり、また、「それぞれ翻訳ごとに印象が違う」という田口氏の文庫本解説者の指摘を受けて、「まさか誤訳じゃあるまいし」ということで自分で翻訳してみたというのです。
世界的ベストセラー作家に手厳しい評価
その翻訳文と詳しい経緯については、山形氏が今年5月に翻訳した「長いお別れ」の「訳者あとがき」に書いていますが、特にやり玉に挙げているのが、文学者の思い入れ溢れる村上春樹訳でした。かなり手厳しい評価を下しています。例えば、fatalを村上氏が「宿命的な」と翻訳していることについて、山形氏は「村上春樹は原文のfatal の意味をまちがえている。ファムファタルという表現がカッコいいと思ってそれに引きずられたんだろうが、英語ではこのfatalという単語を『宿命の』という意味でほぼ使わない。致命的な、という意味だ」と断言しております。
山形浩生氏は、米マサチューセッツ工科大学(MIT)で修士号を取得するほど英語の使い手、熟練者でもあるので、相当英語には自信があるようです。著書もかなりありますが、訳書となるともう数えきれないほどで、その量の多さには眩暈がして卒倒しそうになりました。
それにしても、世界的なベストセラー作家であり、ノーベル文学賞候補でもある天下の村上春樹氏もこれでは形無しですね。村上氏がどう反論されるのか期待してしまいました。
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