朝倉剛先生
私の大学時代の恩師は朝倉剛(あさくら・かたし)先生(1926~2000年)でした。17世紀フランス文学が御専門なのに、私は無理やり19~20世紀の印象派で卒業論文を提出し、受理して頂きました。「嗚呼、僕の専門じゃないんだけどなあ~」と、先生は頭の後ろをかきながら、困った表情をされたことを今でも思い出します。もう半世紀近い昔の話なのでよく覚えていないのですが、当初、私は16~17世紀のデカルトで卒論をでっち上げようと思っていたので、朝倉先生に師事したのではないかと思います。デカルトの文献を読んでいるうちに、あまりにも難し過ぎて自分の手では負えない、と途中で諦め、師事した先生はそのままで印象派に方向転換したのではなかったかと思います。
朝倉先生には大塚の行き付けの呑み屋さんである有名な「江戸一」に連れて行ってもらったり、大変よくして頂きました(その後、江戸一では、劇団四季の浅利慶太さんを女性連れでお見掛けしたことがありました)。銀座の三笠会館で行われた結婚式の仲人にもなって頂きました。今でも感謝し、同時に専門外のことを押し付けてしまい申し訳なかったと今でも後悔したりしております。先生は大学退官後、日本フランス語フランス文学会の会長まで務められましたが、2000年に亡くなられた時は、まだ73歳の若さでした。葬儀は目白の東京カテドラル聖マリア大聖堂で営まれ、その時初めて先生がカトリック教徒として洗礼を受けていたことを知りました。先生は決して偉ぶらず、学生に対しても分け隔てなく大変親切で、何しろとてもシャイな方でしたが、少し納得しました。
「ひとさまざま」
何故、これほど朝倉先生のことを思い出したのかと言いますと、目下、NHKラジオ「まいにちフランス語」で17世紀のフランスの作家ジャン・ド・ラ・ブリュイエールJean de La Bruyère(1645~96年、50歳没)を取り上げているからです。17世紀なら先生の御専門じゃありませんか!テキストではラ・ブリュイエールの「ひとさまざま」(1688年)の文章を取り上げていますが、当時の太陽王ルイ14世の統治下、宮廷人たちのあたふたした状況が皮肉たっぷりに描かれています。私好みの作品で、「もっと早く知っておけばよかった」「朝倉先生に色々とお聞きしたかった」とまたまた後悔してしまったわけです。
まず、ラ・ブリュイエールの観察眼には圧倒されます。300年以上も大昔の話なのに全く古びておらず、現代でも通じる教訓に満ち溢れています。とても奥が深く、原文には含蓄に富んだ表現が隠れていて、それを学ぶだけでも確かに何年も掛かりそうです。
「物知りのアリアス」
茲では、私が一発大逆転のどんでん返しを食らった「ひとさまざま」の中に収録された「物知りのアリアス」を取り上げます。NHKテキストの逸見龍生先生の翻訳をそのまま写してしまっては著作権の侵害になるかもしれませんので、私が勝手にあらましをでっち上げます。こんな話です。
ある大貴族の邸宅で懇親会が開かれます。その時、スウェーデンと思しき北国の宮廷の話題になります。そこに、アリアスという万巻の書を読みつくした男が滔々とこの国の風俗や習慣、法律、女性のことまでまくしたてます。他人が入る隙間もありません。何しろ、アリアスは自分が何もかも知っている人間だということを吹聴し、周囲からもそう見てもらいたいと願う人間です。沈黙して何も知らない人間だと思われるより、嘘をつく方がましだと考えている人間だからです。
その時、アリアスの言葉をさえぎって「それは違いますな」と反駁する人が現れました。それを聞いたアリアスは真っ赤な顔をして「何を言う! この話は駐在大使だったセトン氏から直接聴いたのだぞ。セトン氏は数日前にパリに戻られたばかりで、私も親しく存じ上げているので、セトン氏は何でも私の質問に答えてくださったのだぞ」と怒りまくりました。
また、その時、誰かがアリアスの背中を軽くトントンと叩く人が現れました。その人は言います。
「アリアスさん、貴方が怒っている相手は、セトン氏ですよ。大使のお仕事から戻られたばかりです」
ラ・ブリュエールはこの後、何も書きません。アリアスがどんな表情をしたのか。セトン氏がどう対応したのかも。全て、余韻を残して、読者の想像に任せているのです。
どうですか。300年以上経った現在でも、アリアスのような人間がいると思いませんか? 誰とは申しませんけど(笑)。私自身は大変な天邪鬼で皮肉屋でもありますから、一気にラ・ブリュイエールのファンになってしまいました。
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