相変わらず、武山廣道監修「くり返し読みたい禅語」(リベラル社)を読んでおります。知らなかったことが多く、新鮮な驚きでもって熟読しています。
例えば、「挨拶」が禅語だということを知りませんでしたね。「挨」とは「押す」、「拶」とは「迫る」を意味し、禅僧が禅問答をしてお互いの力量を測ることを挨拶といったそうです。ですから、挨拶とは、一方的ではなく、相手の体調など様子を測る意図もあるといいます。
挨拶は日本語の中に溶け込んでいますから、深い意味や語源まで全く知りませんでした。そこで、禅とは何か。先月の福井旅行で曹洞宗総本山の永平寺をお参りしたこともあり、興味が復活して少し禅の歴史について調べてみました。以下は、駒澤大学の程正教授の著作などを参照しました。
禅宗の開祖は達磨さん
禅宗の開祖は6世紀に南インドから中国(当時は南朝の梁)に渡って来た達磨です。「ダルマさん、ダルマさん、睨めっこしましょ」のあのダルマさんです。この菩提達磨は、色々な伝説がありますが、南天竺国王の第3王子として生まれ、般若多羅の法を得た釈迦の28代目の弟子とされます。仏教を知識や学問としてではなく、実践を重視し、少林寺の裏山で9年間も座禅修行をしたといいます。528年、齢150歳で毒殺されたという説があるようですが、生没年は不詳で、やはり伝説の域を出ないと思われます。
雪舟筆「慧可断臂図」
雪舟に「慧可断臂図(えかだんぴず)」(1496年)という国宝になった作品があります。神光という中国人の僧が達磨に弟子入りをお願いしますが、なかなか許してもらえません。そこで神光は、自分の左肘を切って自分の覚悟を示したところ受け入れられ、後に彼は慧可と名乗り、禅宗2祖になったといいます。慧可断臂図は、慧可が達磨に切った臂(ひじ)を差し出している様を描いています。
それだけ、禅は日本人に影響を与えたという証左だと思います。
6代目慧能が禅を完成
さて、禅思想が確立したのは達磨から6代目の慧能(えのう、638~713年)です。禅の修行は座禅だけではなく、日常生活のあらゆる動作の中に求めれるようになりました。まさに「行住坐臥」です。「行」は歩く、「住」は止まる、「坐」は座る、「臥」は寝ることを意味します。この行住坐臥の思想を広めたのが慧能だといいます。昨日のこのブログで取り上げた「本来無一物」も慧能の言葉でした。
禅宗五家とは
慧能から約200年後に「禅宗五家」が成立します。①臨済宗②潙仰 (いぎょう) 宗③曹洞宗④雲門宗➄法眼 (ほうげん)宗の五家です。
鎌倉時代、宋に渡った栄西(1141~1215年)が臨済宗を、道元(1200~1253年)が曹洞宗を伝えましたが、この2宗しか日本に伝わっていません。 その当時、既に、他の潙仰宗と雲門宗と法眼宗は衰えていたからです。
ちなみに、①臨済宗の開祖は臨済義玄(りんざい・ぎげん)、②潙仰宗の開祖は、潙山霊祐(いざん・れいゆう)と仰山慧寂(ぎょうざん・えじゃく)、③曹洞宗の開祖は、洞山良价(とうざん・りょうかい)と曹山本寂(そうざん・ほんじゃく)、④雲門宗の開祖は、雲門文偃(うんもん・ぶんえん)。昨日のこのブログで取り上げた「日日是好日(にちにちこれこうにち)」もこの文偃の言葉だと言われています。➄法眼宗の開祖は法眼文益(ほうげん・もんえき)でした。
このように見ていくと、禅宗とは天竺(インド)の達磨から伝えられたにせよ、「中国仏教」だということが分かります。鎌倉の建長寺などを開山した蘭渓道隆やその後継者の無学祖元、天龍寺や西芳寺などを作庭した夢窓疎石らは宋から渡来した中国人でした。ただし、鎌倉時代に栄西と道元らによって日本に齎され、特に北条氏をはじめ、戦国大名ら武家社会に取り入れられ、見事に「日本仏教」として開花したという見方で良いと思います。
禅は茶道や生け花などにも影響を与え、わびさびなどの日本文化の原形をつくったとも言えるでしょう。ですから、禅とはもともと中国仏教だったことを忘れてしまうのです。それに、現習近平政権下の本家本元の中国では禅は衰退してしまっています。
以上、管見ながら、中国で衰退した思想が、現代の日本でも影響力を持ち、日本の文化の根幹を支えているという事実に今さら気づかされます。
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