ノンフィクション作家の山崎朋子さん(1932〜2018年)は、恐らく、私が一番多く、仕事を離れて、個人的に親しくさせて頂いた作家さんだと思います。「先生」と呼ぶと怒られたので、「山崎さん」とします。
大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した彼女の代表作「サンダカン八番娼館」(筑摩書房)ぐらいしか読んだことがないのに、1995年の「戦後50年」の企画の際、インタビューを申し込んだところ、快く引き受けてくださり、彼女の東京都目黒区の自宅にお伺いしました。
通された客間というか、居間には天井までの高さのある巨大な本棚があり、彼女の専門の女性史関係の書籍でいっぱいでした。インタビューは大抵、1時間ぐらいで終わるのですが、山崎さんの場合は、私を気に入ってくれて3時間近くに及びました。
それ以来、20年以上、年に数回、銀座や神楽坂や自由が丘などで夕方に軽く一緒に飲んだりしました。いつも、彼女の方から電話があり、「山崎、朋子ですけど…」と、少女のようにはにかんだような独特の高い声が今でも耳の奥に残っています。彼女と会って話をしても、字にしなかった(記事にしなかった)ので、プライベートと言えばそうだったかも知れません。
彼女は「サンダカンまで わたしの生きた道」(朝日新聞社)など多くの自伝を書いています。まさに波瀾万丈の生涯です。彼女が8歳の時、父親は海軍の潜水艦の艦長でしたが、訓練中に事故死されました。1945年、広島市に住んでおりましたが、原爆が投下する前に、母親の郷里である福井県に移り住んだため、助かりました。福井大学を2年で修了し、小学校の教師になりますが、女優になる夢、捨てがたく、22歳で上京、演劇の勉強をするうちに在日朝鮮人の男性と知り合い同棲します。彼は東大の大学院を修了したインテリでしたが、差別で就職が見つからず、民族運動家に転じていたので、山崎さんが喫茶店のウエートレスなどをして生活を支えますが、結局、当時の時代的背景などもあり、二人は別れることになりました。
その後、喫茶店のウエートレスやモデルなどをしている中、一方的に好意を寄せてきた男に夜道をつけ狙われ、ナイフで顔を傷付けられたため、女優になる夢を諦めます。その後も傷跡は残ったため、彼女は左の髪の毛だけはずっと長く伸ばしていました。
彼女と会うとそんな苦労話はあまりしないで、彼女が会った最もユニークな本田宗一郎さんの逸話などを面白おかしく話してくれました。また、かなりの情報通で、「今度、朝日新聞論説委員の◯◯さんが◯◯大学の教授にスカウトされたみたいですよ」といった極秘情報も教えてくれたりました。
また、彼女の家族のことや副業のことなども話してくれましが、あまりにもプライベートな話なのでブログには書かないことにします。その代わりと言っては何ですが、彼女が話した最も忘れ得ぬ言葉は「私が死んでも、作品は残りますから」でした。何の脈絡でそんな話をされたのか忘れましたが、「文章を書くことは本当に苦しいことです。でも、書いた作品は図書館などでずーと残ります。私が死んでも作品だけは残るわけですから、それが生き甲斐みたいなものです」と仰ったことが、ずっと心の奥底に残り、忘れられませんでした。

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