歴史は面白いですね。新資料が発見されたりすると、歴史が書き換えられたりするからです。
最近の新資料発見で一番画期的な話は、織田信長が討たれた「本能寺の変」(1582年)で、明智光秀が本能寺(京都市中京区)の現場にいなかった、という驚愕的な新説です。本能寺から約8km南方の鳥羽(京都市南区)に控えていた、と古文書『乙夜之書物』に書かれていたのです。この本は、江戸時代、加賀藩の兵学者・関屋政春が書いたもので、本能寺の変の現場で総指揮を執った光秀の重臣・斎藤利三(としみつ)の三男で、この変にも参戦した斎藤利宗が、甥にあたる加賀藩士の井上清左衛門に語ったものを、著者の関屋政春が聞き書きしたものです。
ちなみに、斎藤利三は、この後に出てくる山崎の合戦で敗れて逃走しますが、捕縛されて秀吉によって処刑されます。また、利三の妹は長宗我部元親の妻で、娘は三代将軍徳川家光の乳母になる春日局です。
「光秀は鳥羽ニヒカエタリ」という記述を発見したのは、富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員(日本中世史)で2021年1月のことで、そろそろ、これが「定説」として認められそうです。
不都合な真実
こればかりではありません。3月13日付朝日新聞朝刊で、羽柴秀吉が明智光秀を倒して信長の後継者に名乗り出た天下分け目の「山崎の合戦」に、秀吉自身は遅参して、間に合わなかったという新説が紹介されていました。これには本当にびっくり仰天です。秀吉が450年間隠し続けてきた事実だとすると歴史が書き換えられます。
山崎の合戦は、1582年6月13日です。新説を発表した中京大学の馬部隆弘教授(日本中近世史)は2024年、合戦当日の13日に秀吉が記した書状を古書店から入手し、そこには、配下の武将宛てに「明日西岡に出陣する」と書かれていたというのです。西岡というのは、光秀が戦陣を張っていた勝龍寺城(京都府長岡京市)があった地名です。
その13日に光秀は、籠城から一気に城の外に出て、山崎で、織田家臣の池田恒興らに敗北し、逃走中に落武者狩りで命を落とします。ですから、馬部教授は「秀吉が書状を出した直後に光秀の出陣を知って急いだとしても、夕刻の山崎の合戦に間に合わせるのは難しい」と主張します。また、信長の後継者を決める清洲会議に、単なる中堅武将に過ぎなかった池田恒興が「宿老」にスピード出世して参加したのは「恒興が光秀討伐の第一の功労者だったと考えれば説明がつく」と馬部教授は推定します。
天下分け目の戦いに秀吉自身が参戦していなかったとしたら、信長の後継者としての信任性が失われます。秀吉としては、絶対に隠したかった「不都合な真実」だったかもしれません。
歴史は面白いですね。

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