先日、Sさんと芝大門の増上寺をお参りしたことをこのブログに書きましたが、この徳川家菩提寺という江戸で最も重要な施設の防火・火消し役を任されていたのが、この近くの赤羽橋(現東京都港区三田1丁目)に上屋敷を構えていた久留米藩だったことが25日、渓流斎日乗ブログの調べて分かりました。その証拠が、二代歌川広重・三代歌川豊国「江戸自慢三十六興 赤はね火之見」(国立国会図書館デジタルコレクション)=写真=で、左上に火の見櫓が見えています。増上寺近辺の町火消しは「め組」でしたが、こちらは本格的な「大名火消し」です。
何でこんな大袈裟な書き方をしたのかといいますと、私(渓流斎日乗主宰者)の先祖は、この久留米藩の下級武士だったからです。残念ながら資料が残っていないので分かりませんが、御舟手役だったので、参勤交代の際に有馬のお殿様に付いて、九州から江戸に上った可能性があり、当然ながら、この赤羽橋の上屋敷に行ったはずです。もしかして、私の祖先の誰かが、この火の見櫓に登って、増上寺の不審を見守ったりしていたかもしれない、などと想像すると、何かワクワクしてきたのです。
こんなところで、私の祖先と増上寺の関係があったのかと思うと、それだけで不思議な御縁を感じます。
今はとても便利な時代で、わざわざ都心の国会図書館に足を運ばなくても、しっかりとしたニュースソースさえ確かめれば貴重な情報が居ながらにして入ってきます。
このブログを書くに当たって、特に参考になったのが、東京都港区のデジタル版「港区のあゆみ」の中の「火の見櫓と水天宮」です。最初に「久留米藩有馬家(外様二一万石)は明暦の大火(一六五七)の後、江戸城直近の大名小路にあった上屋敷を返上して、芝の下屋敷(現在の三田一丁目)を上屋敷に振り替えた」と書かれています。私は久留米藩の上屋敷は、もともと赤羽橋にあったと思っていましたので、意外でした。大名小路というのは、今の東京駅前の丸の内辺りで、超一等地です。
赤羽橋の上屋敷の敷地は幕末には2万4925坪と広大で、近くの雄藩である薩摩藩(芝三田綱町)の約2万2000坪より広かったというので、驚きです。ちなみに、久留米藩の江戸中屋敷は芝新馬場(現港区芝付近)、下屋敷は江戸郊外の渋谷(現渋谷区周辺)にあったようです。
水天宮
久留米藩の上屋敷といえば、最も有名なのが水天宮です。水天宮は現在、東京都中央区日本橋蛎殻町に移転されておりますが、もともとは久留米藩の上屋敷内にあったものです。水天宮は、文政元年(1818年)に久留米の国元から勧請した邸内社で、あまりにも大衆が邸宅外からお賽銭を投げ入れたりするので、毎月五日を参拝公開日にしたといいます。
水天宮は、安産の神さま、子授けの神さま、厄除けの神さまなどで知られ、深く信仰されましたが、その賽銭収入は年間1500両(現在の3億円前後)に及んだといいますから、藩の財政が潤ったことでしょう。こんなことを書くと罰が当たるでしょうが…。
先程の浮世絵の右隅に水天宮の幟が見えています。
久留米藩上屋敷だった広大の敷地には現在、三田国際ビル、都立三田高校、簡保事務センター、済生会中央病院、国際福祉大学三田病院などが建っています。この中で、私の甥っ子に当たる正樹君が都立三田高校に学んだので、これまた不思議な御縁を感じました。


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