「人間の証明」(1976年)や「悪魔の飽食」(1981年)などで知られる推理作家の森村誠一氏(1933〜2023年)。大学卒業後、ホテルマンとして勤務しながらもコツコツと小説を書き、労苦を重ねてデビューしたことで、「苦労人」のイメージがあります。
実際にお会いすると、写真の通り痩せ形で、苦労人のイメージそのままでした。1994年頃、御自身のミステリー作品のテレビドラマ化の際に、レストランでの懇親会で、十数人の記者、カメラマンの中でお会いしたのですが、幸運にも私は森村氏の真ん前の席で、じっくり御尊顔を拝しながら話を聞くことが出来ました。
その時、何の話の脈絡だったのか忘れましたが、森村氏は急に「作家にとって名前がないことは罪です」と言い出したのです。「罪」などと重い言葉を持ち出すので、驚き、身仕舞いを正しました。
森村氏は続けて、「作家デビューした頃ですが、本屋さんに行くと、『あいうえお』順の作家の名前で本棚に本が並べられています。芥川龍之介、井上靖…といった順です。『も』に行くと、森鴎外、森村桂…とありますが、当然、あるはずだと思っていた私の名前がないのです。せっかくプロになれたというのに、これでは駄目です。その時、作家にとって、名前がないことは罪だと思ったのです。それで、名前が知られるよう努力しなければならない。これからも書き続けようと思ったのです」と振り返っていました。
まさに、世阿弥の「初心忘るべからず」ですね。この話を聞いて、私は、神の怒りに触れて、何度も何度も大きな岩を山頂に運ばされる罰を受けた、アルベール・カミュの「シーシュポスの神話」を思い起こしてしまいました。

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