はじめに
人の身体は「言葉」で出来ていると思っています。人間の生き方や行動は、人の言葉によって影響されます。
初めは両親や祖父母、きょうだい、親戚、次は友人、知人、学校の先生、そして新聞や本、テレビ、映画などのメディアから多大な影響を受けて、悩んだり、苦しんだりしながら、将来の職業を選んだりします。
これが「人の身体は言葉で出来ている」という私の考えの由来です。
私は長年、マスコミの記者として働き、多くの有名人を取材してきました。作家の松本清張、司馬遼太郎、五木寛之、大江健三郎、文芸評論家の江藤淳、画家の東山魁夷、猪熊弦一郎、俳優の仲代達矢やマイケル・ダグラス、女優の吉永小百合、お笑いのビートたけし、ジャズの日野皓正、世界的ロックスターのローリング・ストーンズやマライア・キャリー、指揮者のクラウディオ・アバド…と枚挙にいとまがありません。普通の人では出来ない貴重な体験でした。死んで生まれ変わっても、迷わず「新聞記者」を選びます(笑)。
ということで、こんな貴重な体験を独り占めにしてこの世を去ることは烏滸がましいのではないかと、人生の晩年を迎えて思うようになりました。一種の「終活」の一環として、私が会った有名、無名を問わず、今でも忘れられない人々が語ったことを、この《渓流斎日乗》に連載しようと思い立ちました。
恐らく、どこの書籍にもネットにも出ていない話だと思います。私が直接的、間接的に会ったり読んだりした情報だからです。諜報用語で言えば、ヒューミント(人間を情報源として情報を収集する活動)です。
取材ノートは既に全て処分してしまい、記憶が曖昧であやふやな点もありますが、強烈な印象が脳の奥底に刻まれた【忘れ得ぬ言葉】を書いていきたいと思います。何回続くか分かりませんが、有名人とは仕事の話(例えば、俳優さんならその役柄を演じる上で苦労したこと)が中心でしたので、それほど印象に残る話が少なかった、というのが正直なところです。むしろ、世間では無名の両親や友人や先生らの言葉の方が心に深く残っています。
とにかく、読者の皆さんにも何かヒントになるか、役立つような言葉が見つかれば嬉しいと思っています。
文豪の話が思い出せない…
前置きが長くなりましたが、第1回は、日本文学者のドナルド・キーン氏です。1994年11月頃だったと思います。時事通信社文化部の「新年企画」で、キーンさんと時事通信社解説委員長(当時)の藤原作弥氏と対談してもらいました。日比谷の松本楼で、軽く食事をしながら対談して頂いたので、3時間近く掛かったと思います。
その中で、一番残ったキーンさんの言葉が「日記を付けておけば良かったと後悔してます」でした。ご存じのように、キーンさんは日本人以上に古典から現代まで日本文学に精通し、膨大な業績を残しました。ここではその一端すら書けないのが残念ですが、キーンさんは同時代人の文豪との交流も盛んに行いました。永井荷風、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫…といった錚々たる文豪です。勿論、夜の飲み会にも同席しました。そこでは文豪たちから色んな興味深い話をたくさん聞いたそうです。しかし、キーンさんには日記を付ける習慣がなかったので、彼らが具体的にどんな話をしたのかほとんど忘れてしまったというのです。
逆算すると、キーンさんは当時、72歳ぐらいでした。私は、キーンさんのような、絵に描いたような頭脳明晰で優秀な学者さんでさえ、忘れてしまうことがあることに驚愕してしまい、この言葉がずっと心の中に残りました。キーンさんは大変な努力家で、「テレビで見たい映画をやっていても、仕事があるので見られないですよ」と正直に話していたことも記憶に残りました。
これからでも遅くありませんから、皆さんも夜はSNSなんかやらず、日記を付けることをお勧めします。

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