荻窪の井伏鱒二旧邸と太宰治の下宿跡を訪ねる文学散歩

荻窪「碧雲荘」跡(太宰治が住んだ下宿屋)keiryusai.net 雑感
荻窪「碧雲荘」跡(太宰治が住んだ下宿屋)keiryusai.net

 6月20日(金)、文学にも精通しているエコノミスト曽我純博士のお導きで、東京・荻窪の文学散歩に参加して来ました。参加者は私一人なのでマンツーマンです(笑)。荻窪は作家の井伏鱒二が昭和2年(1927年)から亡くなる95歳まで66年間も住んだ街として知られ、井伏の弟子、太宰治も師を慕って住んだ街でもあります。

 後で分かったのですが、太宰治は、昭和8年(1933年)から昭和13年(1938年)にかけて5年間も荻窪の下宿に住んでいましたが、何と8回も転居を繰り返していました。いずれも、師の井伏鱒二邸から歩いて数分の距離にありました。

心もとない案内役?

 曽我博士は、せっかちで寡黙な人です。「6月20日(金)午前11時30分、JR荻窪駅東改札で」というたった一言の「果たし状」だけで、旅程の内容の御説明はありません。約束時間に指定された場所でお目にかかると、「ちょっと」と言って何処かに消えてしまうのです。(後で、トイレに行っていたことが分かりました!)そして、「それでは行きましょう」と何も目的地も言わずに連れて行って下さったのが、某ラーメン店でした。

荻窪 中華そば「丸福」keiryusai.net
荻窪 中華そば「丸福」keiryusai.net

 「荻窪は、ラーメンで有名ですからね。早めに行かないと込みますからねえ」と曽我博士は、涼しい顔で説明されるので、何が何だか分からないまま、「中華そば」880円を注文しました。

 そしたら、チャーシューともやしが入った何とも懐かしい味。私が子どもの頃に食べた中華料理店のラーメンと同じ味がしました。もう60年も昔なのに、味だけは忘れません(笑)。

 食べ終わって外に出て、ついでだから、ということでお店の写真を撮っておきました。「嗚呼、何だあ、『福』という店かあ」と、初めて店名が分かり、何の感慨を持たなかったのですが、自宅に帰り、この写真をブログにアップしていたら、「あっ!」と初めて気が付きました。「もしかしたら、丸福じゃないの⁉」荻窪の丸福と言えば、春木屋と並ぶ老舗の超有名店じゃありませんか! そんな説明もない曽我博士はガイド失格ですねえ(笑)。でも、ついでに、荻窪駅近くの飲食店巡りをすると、ラーメン店ばかりでした。50軒、いや100軒はあるかもしれません。「よくつぶれないなあ」と正直思いましたが、何しろ、荻窪の杉並区は人口54万人も擁するといいます。私が20年前に北海道の帯広支局に勤務していた頃、十勝地方の人口が36万人、そのうち最大の帯広市でも17万人でしたからね。54万人も住んでいれば、ラーメン店が100軒あってもやっていけいるのでしょう。

 そればかりでなく、途中で全く看板も何も出していない高級寿司店を曽我博士から教えてもらいました。そんな「隠れ家」商売でも予約でいっぱいなんだそうです。住宅街の中で、看板も出していないラーメン屋さんもありました。それでもお客さんでいっぱいでした。荻窪は不思議な街です。

90年前の荻窪を求めて

 そんな荻窪の90年前に遡って、我々は太宰治と井伏鱒二の旧宅を探す旅に出ました。

 最初に向かったのは、太宰治が昭和11年(1936年)11月から翌年6月まで約7カ月間、最初の妻初代と一緒に住んでいた碧雲荘でした。碧雲荘は2016年までは現存してあったそうですが、移築されて、今は杉並区の複合施設と老人ホームで成る「ウェルファーム杉並」になっていました。

荻窪「碧雲荘」跡(太宰治が住んだ下宿屋)keiryusai.net
荻窪「碧雲荘」跡(太宰治が住んだ下宿屋)keiryusai.net

 「ここは何もないんですよ。案内もないんですよ」と曽我博士は困った顔をされるので、「それは、駄目ですねえ。杉並区教育委員会の怠慢じゃないですか!」と私が怒りを露わにしたところ、「あれっ?」敷地の奥にしっかり案内看板があったのです。私が見つけました。曽我博士のガイドはやはり、心もとないですねえ(笑)。

5年間に8回も転居

 この案内板に「ウェルファーム杉並複合施設棟4階に太宰治の文学展示」があるというので、早速行ってみました。そしたら、以下の写真の通り、太宰治が昭和8年(1933年)から昭和13年(1938年)にかけての5年間で8回も転居した荻窪の下宿の地図があったのです。

太宰治が1933年から38年までの5年間で8カ所も住んだ荻窪の下宿 keiryusai.net
太宰治が1933年から38年までの5年間で8カ所も住んだ荻窪の下宿 keiryusai.net

 ちょっと、異常ですね。この途中で、太宰治はパビナール中毒で、武蔵野病院に強制入院させられていますから、確かに異常な精神状態だったことは確かです。東京帝大仏文科を卒業し、都新聞(現東京新聞)の入社試験に落第し、作家1本に懸けようとした太宰24歳から29歳にかけてのことです。

歴史的文化遺産としての井伏鱒二邸

 この後、曽我氏に連れて行って頂いたのが、太宰治の師である井伏鱒二邸跡です。井伏が昭和2年から亡くなる95歳まで66年間も住んだ自宅ですが、井伏を慕う多くの文士が集まったところです。その辺りは、井伏著「荻窪風土記」に詳しいです。

荻窪の井伏鱒二跡(現在違う方が住んでいらっしゃるようで失礼致しました) keiryusai.net
荻窪の井伏鱒二邸跡(現在違う方が住んでいらっしゃるようで失礼致しました) keiryusai.net

 現在、表札もなく、どなたがお住まいになっているのか分かりませんが、恐らく井伏家とは関係のない方が住んでいらっしゃるかも知れず、こうして写真なんか撮られることは御迷惑だろうなあ、と思いつつ、歴史的文化遺産として撮影させて頂きました。御迷惑でしたら削除しますので、コメント欄で御連絡ください。

太宰治は井伏邸まで歩いて数分の下宿を8回転居

 この後向かったのは、太宰治が荻窪で5番目に住んだ下宿跡です。

太宰治が荻窪で五番目に住んだ下宿跡「弁天池」 keiryusai.net
太宰治が荻窪で五番目に住んだ下宿跡「弁天池」 keiryusai.net

 何の案内板もなく、恐らくこの辺りだろうという所で、もしかして、間違っているかもしれません。間違っていたら、案内役の曽我氏の責任です(笑)。何しろ、90年近い昔の話で、当時の荻窪は田畑だらけだったらしいですから、当時の面影が全くないのは当たり前です。

 私は太宰治に関しては、高校時代にとち狂って、筑摩書房の全集を読破し、坂口安吾や山岸外史や檀一雄らによる評伝、評論もかなり読破しました。

 今回初めて、太宰治の荻窪の所縁の地を訪れましたが、20代の太宰は師匠の井伏鱒二邸まで歩いて数分の所にある下宿を8回も転居していたことが分かりました。落語家のように、本当に師匠の近くで文学修行していたんだなあ、ということが分かりました。

 外は30度を超える猛暑で、この後、さすがに疲れて、駅近くの喫茶店に入りました。そこで、フリー・エコノミスト曽我博士の御活躍の話をお伺いしましたが、その話はまた次回に。

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