思い出横丁「きくや」でH女史と6年ぶりに再会

新宿・思い出横丁「きくや」 雑感
新宿・思い出横丁「きくや」

 昨晩は、新宿・思い出横丁にある「きくや」という居酒屋で、かつて仕事でお世話になったHさんと6年ぶりに再会して旧交を温めました。「きくや」は、昨年惜しくも亡くなった俳優の西田敏行さんの行き着けの店で、もつ焼き専門店です。

新宿地下道で迷い人寸前に

 新宿に足を踏み入れたのは久しぶりでしたが、西口の地下道が工事中か何かですっかり変わっていて、迷子、いや迷い人になりそうでした。新宿西口といえば、ベトナム戦争の1969年頃、フォークゲリラと呼ばれた反戦集会が毎週開かれていた西口広場がありましたが、その広場が見当たらず、あったとしても何処だったのかよく分からず、狭い路地のような地下道がいくつも並列していました。

 早く、地上に出たい、と思っても、なかなか出られなかったので少し焦りました。地上に出れば出たで、平日の夕方だというのに酷い人混みで、まともに歩けないほどでした。梅雨の季節だというのに、雨も降らず、35度近い猛暑で、歩くだけでヘトヘトになりました。人の多さは、「さすがに東京だ」と思いましたが、よく見ると、多く見積もれば、半分近くは外国人観光客でした。まだ、円安の恩恵が続いているのかしら?

フジテレビ問題のタレントさんにはなりたくなくて

 とにかく、H女史との再会の話です。一対一でお会いすると、フジテレビ問題のタレントさんみたくなってしまうので、元会社の同僚だったY君も一緒に同席してもらいました。彼女は、日本と東南アジア諸国との間の「貿易」「投資」「観光」という3分野における経済促進と、「人物交流」の促進を主目的に活動する国際機関であるアセアンセンターの職員として働いていました。その仕事の一環として、年に何回か、東南アジア諸国に工場を建設して進出したいという日本の企業や、銀行やシンクタンクなどに所属する人たちを引き連れて、現地の工業団地の見学ツアーなども実施していました。私は、彼女が立案したツアーとして、ベトナムとインドネシアに参加したことがありました。彼女は、企画立案兼添乗員兼通訳兼コーディネーター役でした。私は報道記者でしたから、帰国して、レポート記事を会社の媒体に発表していたのです。

取材相手の90%は「一期一会」

 私は、40年以上に及ぶ取材を通して、有名、無名と問わず、何千人、何万人もの人とお会いしましたが、90%近くは「一期一会」で、その場で会っただけで、もう二度とお会いすることはありませんでした。でも、残りの10%は、余程、御縁があったのか、親密になって、仕事を離れてもたまにお会いすることがあったのです。

 H女史もその10%の中の一人です。男のように豪快に大口を開けて大笑いし、裏がない真っ直ぐな性格な人です(笑)。同時に頭の回転が速く、英語もネイティブ並みでとても優秀な人です。インドネシアに行った時、帰りのジャカルタ空港で、航空便が遅れて、乗れるか乗れないか瀬戸際になった際、航空会社の職員が「お金を渡せば、優先して乗せてやるよ」と露骨に賄賂を要求してきた時、彼女は、鬼のような形相で「ノー」と断固拒否したりしてましたから、とても頼もしく感じたものでした。

高名映画評論家を批判する資格

 そんな思い出話もしたりしましたが、彼女は既に、そのアセアンセンターをよんどころのない事情で数年前に退職してしまい、今は、某国の施設の通訳官として仕事をしていることを聞きました。なぜ、彼女がアセアンセンターをやめざるを得なかったのか、聞くも涙の話でしたが、その理由については、衆人に監視されている拙ブログに書けませんね。

 また、彼女が現在勤務している某国の施設についても同様に拙ブログでは明らかにすることは出来ません。まるで、先日、拙ブログで批判した高名な映画評論家さんのような文章になってしまいましたが、彼は高額の原稿料を貰ってますが、私はフリー(タダ)でこのブログを書いていますから、別に差し支えないことでしょう(笑)。御寛恕のほどをー。

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