ブログ論

《渓流斎日乗》2025年5月14日 keiryusai.net 雑感
《渓流斎日乗》2025年5月14日 keiryusai.net

 このブログ《渓流斎日乗》は2005年に始めたので、今年で20周年を迎えました。途中、病気のため中断した時期もありましたが、我ながらよくここまで続けてきたものだと思います。人から褒められもせず、苦にもされず。さふいふ者に私はなりたいー精神でここまでやって参りました。

 しかし、時折、ふと立ち止まって、自分は一体、何をやっているんだろう?と思うことがあります。一番の原因はこれだけ時間と資料や入場料購入や交通費等の取材費が掛かるというのに無報酬(ただ働き)です。現役時代なら収入がありましたから良いのですが、無職になれば、果たして、残りの人生、大事な時間とお金をこんなブログごときに無駄に投入していて如何なものか、といった気分にもなります。人間ですからね(笑)。それに、私自身、個人的に、「世間に物申す」といった気概に欠けています。他人を支配する政治そのものが嫌いな性格によるかもしれません。

職業病

 じゃあ、何で、続けているのか、と言いますと、一つは「職業病」ということでしょう。長年、通信社記者として活動して来ましたから、何か情報を得たら直ぐにに手放す(キャッチ&リリース)、しかも、新聞社よりも早く、と若い頃から鍛えられてきたせいかもしれません。映画を観ても、展覧会に行っても、その後、何か「記事化」しないと気持ちが悪くてしょうがない精神と肉体に改造されてしまったのです。誰か、止めてくれ~、てな感じです。(それでいて、生まれ変わっても、また新聞記者になりたい、と司馬遼太郎のようなことを言っておりますが…)

自発的隷従

 さて、このブログのことです。先日、旧友のT君からメールで、鋭い所を突かれて、瞠目したといいますか、非常に考えさせられました。彼はこんなことを言うのです。

 エチエンヌ・ド・ラ・ボエシの説く「自発的隷従論」をもう一度、再考してみてはどうだろうか? 例えば、他者からの審査を受容するか、受容しないかといった命題を突き付けられ、その命題を巡って悪戦苦闘するということは、やはり、自発的隷従であり、「家畜」としての価値を自ら高めていているということにきっちりつながっていると思う。

 その一方で、私が、貴兄に対して、「純粋に自己の見識を示してほしい」と願うとき、それは、お互いに本来としての「野生」を解き放たんとする心の叫びに他ならないのである。

 ブログで、どんなに当意即妙な洒落たことを言ったとしても、どんなに厳しい批判的なことを言ったとしても、結局は、只管に、安逸を追求し続けてきた我々の歴史を捨て去ろうという呼び掛けに他ならないのではないか。

 つまり、芸術家も詩人も、学者もジャーナリストも乙に澄ました家畜に過ぎないのだ。もうそんな道は捨てて、本当に心豊かで楽しい、誰かが誰かを羨ましいと思うこともなく、誰かが誰かを見下したりもしない、そんな世界に戻るべきではないのか?

 つまるところ、最も言いたいことは、我々はもう年だし、「誰がこう言ってる」とか「何処にこう書いてある」などといった世界から訣別するべきではないか、ということだ。

 大人高田謹之祐の純粋な見識をこそ読みたいのだ。無数のテーマについて。ジャーナリスト根性とかも、もう腹一杯だよ。腐る程あるし、いや、もう腐っているから。腹痛起こすから。

  いやはや、この文章には、またまた、ガツンと後頭部を殴られたような衝撃でしたね。旧友のT君は、もうこの渓流斎ブログをあまり熱心に読むことはなくなりましたが、世界で一番の理解者であり、このブログのことを一番心配してくれていた人だということが分かりました。

野依秀市

 確かに、ジャーナリズムというものは、それほどお行儀が良いものではありません。野依秀市の例を出すまでもなく、人々に格差と憎悪を煽り、他人に対する優越感を助長する側面があります。ジャーナリズムは、一種の免罪符であり、おまじないみたいな側面もあります。自己を正当化する手段にも使われます。しかも、ちゃっかり経済的基盤(ビジネスモデル)として宣伝広告が背後にありますから、宣撫活動は得意中の得意です。

 その点、渓流斎ブログには今のところ広告宣伝がついておりませんから、野依秀市的ジャーナリズムとは一線を画しているつもりです。いわば無料奉仕みたいなものです。となると、「お前は一体、何のためにブログなんか続けているのか?」という最初の設問に立ち返って来ます。

サブリミナル効果

 誰も、高田謹之祐ごときに興味を持つことなど一つもないのです。だから、渓流斎がいつ、どこで、誰と、会って、どんな話をしたのか、といったようなブログに書かれる与太話なんか興味はないのです。有名人なら、どんなものを食べて、どんな服装をして、どんなバッグを持って靴を履いて、どんな装飾品を身に着けているのか知りたくてブログやSNSを覗いて「あやかりたい」と思うかもしれません(結局、宣伝のサブリミナル効果が潜んでいることを凡人は知りませんが)。しかし、普通の常識ある読者でしたら、変なおじさんが何処へ行こうが、何を食べようが、野垂れ死にしようが、全く興味も関心もないのです。

 それなのに、何で、お前はこんなブログなんか続けているのか?

 先程も書いた通り、展覧会にせよ、セミナーにせよ、目の前で体験したことを即時にキャッチ&リリースしなければ「気持ちが悪い」という精神と肉体に改造されたから、と言うしかありません。そんな愚物を読まされる読者の皆さんはたまったものじゃない、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、有難いことに、ブログは読者の皆さんの方からアプローチしない限り、読まれることはありません。本人は、当意即妙な洒落たことを書いているつもりです(笑)。だからこんなブログでも、わざわざアクセスして下さる読者の皆さんがいる限り、なるべく続けていきたいと思っているのです。

ブログはやめるべきか?

 しかしながら、確かに、旧友のT君が言う通り、もうブログなんかやめて、「本当に心豊かで楽しい、誰かを羨ましがったり、見下したりもしない、そんな世界に立ち戻るべきではないのか?」といった助言というより、彼の真摯な提言は心に染み渡りました。この先、渓流斎は何処へ行く?

コメント

タイトルとURLをコピーしました