風邪を引いてしまい、丸2日間、寝込んでしまいました。馬鹿じゃなかったんですねえ(笑)。
微熱と軽い咳という軽症でしたが、酷い悪寒に襲われ、ブルブル震えておりました。体力が衰えるのは仕方がないにせよ、気力が低下してしまい、何もやる気が起こらず、投げやりな気持ちになってしまいました。でも、こうして、病を押して、「タダ働き」でブログを更新するなんて我ながら偉い(笑)。
寝っ転がって読んでいた本が、図書館から借りてきた磯田道史著「日本史を暴く」(中公新書)です。大ベストセラーで初版は2022年11月25日です。借りるのに2年近く掛かりました(笑)。この本は読売新聞に連載している「古今をちこち」を加筆修正した上で、1冊にまとめたものです。連載記事は読んでいたつもりですが、すっかり忘れております。ネガティブ志向は良くないので、「新鮮な気持ちで読めた」ということにしておきます。
理解困難な箇所も
最初に言いたいことは、こちらの読解力の不足に相違ないのですが、どうも理解出来ない、分かりにくい箇所が何カ所も出て来たことです。あまり多く挙げると嫌味になるので、一つだけ挙げますと、「浦上玉堂と松平定信の接点」という章の中で、著者が京都の古書画商から、浦上玉堂の書状を見せられて解読した話が書かれています。驚くほど貴重な書状ですが、それを購入したかどうかは書かれていません。何で? 玉堂は岡山藩の支藩である鴨方(かもがた)藩士で琴を弾く文人画家でもありました。代表作は、川端康成愛蔵の「東(凍)雲篩雪図(とううんしせつず)」で、この作品は国宝に指定されています。
その玉堂は、37歳で鴨方藩の大目付にまで昇進しましたが、49歳頃、脱藩し、諸国を放浪します。晩年、京都に定住し、南画の秀作を描きますが、独学だったそうです。(以上「日本史小辞典」山川出版社)玉堂の脱藩は、秀才の藩主池田政香(まさか)が亡くなり、弟が藩主になったことが原因と見られています。ところで、この玉堂と著者の祖先に当たる二代目磯田定益(さだます)は鴨方藩の同僚で親しかったといいます。「へ~」と思ってしまいました。ここまで良いのですが、以下にこう書かれています。
弟が藩主になると、藩の雰囲気が変わった。私の先祖は失脚。面白くなくなったのであろう。玉堂も妻の死後、二人の倅を連れて脱藩した。
「日本史を暴く」102ページ
これだけですと、磯田家はその後どうなったのか分かりません。玉堂と同じように脱藩したのか、いやいや、著者は岡山出身をいつも自慢していますから、彼の先祖は失脚して家禄を減俸されても忍従して耐えに耐えて幕末維新、そして現代にまで生き延びたのかもしれません。でも、この後の「玉堂も」が気になります。「も」ということは磯田家も脱藩したのでしょうか?磯田家が脱藩していなければ、「玉堂は」と書くはずです。読解力がないので、これだけでは分からん。他にもありますが、読売新聞のデスクも中公新書の編集者も目を通しているはずですから、私の読解力がないということにします。
著者の磯田氏は、歴史学者ですから現代人がまず読めないニョロニョロ文字といいますか、古文書をいとも容易く漫画のようにスラスラ読めるのが強みです。テレビに出演して超有名人になりましたから、古書店に行かなくても、先方から掘り出し物が出てくると電話が掛かったりします。
なぜ日本の古典は現代人に読めないのか?
話は飛びますが、我が国の文語体はどうしてこうも現代人が読めなくなってまったのでしょうか?平安時代の「源氏物語」はさることながら、江戸時代の井原西鶴も山東京伝も注釈なしではさっぱり読めませんし理解できません。フランスの17世紀の作家ラ・ブリュイエールも18世紀の百科全書派のディドロも日本の江戸時代に当たる人たちなので、少しの注釈は必要ですが、フランス語自体は読むことは出来るのです。つまり、それほど語彙や文法は変わっていないということです。
今、思い出しましたが、学生時代にデカルトの「方法序説」(1637年)を原書で読みました。20歳かそこらの外国の若者が読めるぐらいですから、17世紀からフランス語は殆ど変わっていないということです。それまでのフランスの知識人は神学を中心にラテン語でしたから、デカルト辺りからフランス語の書き言葉が作られたという説があります。それ以来、現在まで殆ど変わっていないのです。
「カラマーゾフの兄弟」などドストエフスキーの翻訳家として知られるロシア文学者の亀山郁夫氏から直接聞いたのですが、19世紀のドストエフスキーのロシア語は21世紀と殆ど変わっていないというのです。これにも驚きましたね。
古文書を解読したマニアックな労作
あ、「日本史を暴く」の話でした。この本は、著者が古文書を解読した非常にマニアックで労作だと思います。歴史の教科書には出て来ない話ばかりです。
かつては、江戸後期の盗人、鼠小僧次郎吉は、金持ちから金銭を奪って、貧者に配った「義賊」という評判でしたが、著者が、神田神保町の古書店で発見した史料「御屋舗へ忍入候盗賊一件の徴」という旗本の内部記録によると、鼠小僧が忍び込んだ96%は女性の居住空間で、盗金の殆どが「酒食遊興又は博打」で庶民にバラまいたわけではなかったことが分かった、といいます。そんな鼠小僧が何故、「義賊」と呼ばれたのかー。著者は「その背景には江戸庶民の権力者への反感があったろう」と丁寧に推測しています。「庶民の反感」が正史を書き換えることが出来るのか分かりませんが、過去の歴史学者はこの史料を見ていなかったのか、それとも権力者の動向を追うことに忙しく、盗人なんか真面目に調べようとさえしなかったのかもしれません。
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