自宅近くの公民館で開催された歴史講座「仕掛け人 蔦屋重三郎」の2回目、最終回を聴講して来ました。蔦屋重三郎本人の話から随分飛躍した話が多かったのですが、2回目で慣れたせいか、初回のように面食らうことはなく、充実した内容には感服しました。
以下は講師の守富勝男先生の話と私の話が少しまざった玉石混交の話です(笑)。
「吉原細見」と「一目千本 花すまい」
まず、蔦屋重三郎の生まれ育った江戸・吉原にまつわる話として、当時の江戸は圧倒的に男の人口が多く、そのために、結構、女性は大事にされていたという講師先生の話には納得しました。何と言っても、江戸初期は、男性7割、女性3割の人口比率で、8代将軍吉宗の時代の享保年間に入っても、男6割、女性4割で、江戸市中には、結婚できない男で溢れかえっていたようです。女性は結婚する前に、先に相手から「三行半」を書いてもらい、2~3回結婚する女性もいたそうです。
ただし、幕府公認の吉原は超高級で高嶺の花でした。太夫は1両1分(約16万円)、格子太夫は3分(約10万円)、格子は2分(約7万円)という相場だったので、違法ながら、安い岡場所や品川や千住や板橋など宿場の飯盛女が繁盛していたそうです。
北尾重政
私自身は、あまり遊女や吉原の歴史にはそれほど興味がないのですが、蔦屋重三郎といえば、やはり吉原です。蔦重が改編した吉原のガイドブックである「吉原細見」は、江戸土産としても飛ぶように売れたらしいですし、蔦重の初の出版物は「一目千本 花すまい」でした。これは吉原の花魁を萩や菊などの花に例えて絵にした紹介本のようなもので、絵師は北尾派の祖といわれ、多くの弟子を育てた北尾重政(1739~1820年)です。タイトルの「花すまい」は「離すまい」とかけた洒落になっているそうです。私は、「花=花魁」の「佇まい」かと思っていました。
須原屋茂兵衛
北尾重政は、もともと須原屋三郎兵衛という本の地本問屋の息子でした。須原屋三郎兵衛は、大手、大本の版元である須原屋茂兵衛から暖簾分けして店を出した人です。北尾重政は、本来なら店を継がなければならなかったのですが、絵師になりました。でも、本の作り方から流通に至るまで熟知していたので、蔦屋重三郎に本屋の基本を伝授したのではないかと言われています。目下、NHK大河ドラマ「べらぼう」に出てくる須原屋市兵衛(里見浩太朗)も、須原屋茂兵衛から暖簾分けして出店した書物問屋の版元で、杉田玄白らが翻訳した「解体新書」を出版しています。地本問屋は黄表紙などの娯楽本、書物問屋は武家の系図などを掲載した「武艦」「寛政重修諸家譜」や学術書を手掛けていました。
浦和の「須原屋」
もう一人、須原屋茂兵衛から暖簾分けして浅草に出店した須原屋伊八という人がいますが、この流れを汲む本屋が現在も「須原屋」として、埼玉県の浦和に残っています。何故、中山道の宿場町に過ぎなかった浦和に須原屋が進出したのかといいますと、それは明治に入ってからの教育制度の改革が背景にあります。新政府は、国家を近代化し、国際的にも通用する人材を育成するために明治5年に全国に学制を交付し、小学校を義務化したりします。浦和の玉蔵院には江戸時代から既に寺子屋があり、これが埼玉県で第一号の小学校である浦和郷学校(現市立高砂小学校)となり、学制交付の1年前の明治4年に創立します。また、明治6年には埼玉県師範学校(現埼玉大学教育学部)が出来、こうした学校の教科書の取次所として、須原屋伊八と契約した地元の高野幸吉が明治9年に「須原屋」を創業したといいます。

岩槻の「水野書店」
明治5年の学制交付をきっかけに教科書取次販売として出来た書店は全国にありますが、さいたま市岩槻区の水野書店もその一つです。岩槻は城下町で(太田道灌が岩槻城を作ったと言われますが、最近否定する説も出て来ました。岩槻藩は幕末まで続きました)、戦前までは岩槻は、浦和や大宮より遥かに格が上で、明治初めの一時期、埼玉県の県庁が浦和の前に岩槻に置かれたこともあります。
水野書店の店主の水野家の祖先は、徳川家康の三河時代からの譜代大名だった高力清長(こうりき・きよなが)の御用商人で、天正18年(1590年)の小田原征伐の後、高力が岩槻2万石の藩主になったため、水野家も一緒に武蔵岩槻に移り、そこで炭や紙、筆、書籍なども扱っていたというからかなりの歴史があります。驚くばかりです。何が言いたいかと言いますと、江戸時代というのはつい最近のことで、今でも断絶したわけではなく、「地続き」だということです。
山東京伝の筆名の由来
絵師北尾重政の話から須原屋の話になりましたが、北尾重政の弟子の一人に北尾政演(まさのぶ)がいますが、この人は、絵師よりも戯作者の山東京伝の方が有名です。代表作は「江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)」。深川の質屋の長男で通称伝蔵と呼ばれていました。少年の頃、一家は京橋近くの銀座に住んでいました。筆名の山東京伝とは、紅葉山(江戸城)の東の京橋の伝蔵から付けられましたが、洒落っ気たっぷりです。
やはり、江戸っ子は野暮じゃない。粋ですね〜。
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