創業昭和22年の居酒屋で忘年会

大宮駅前「いづみや」もつ煮込み170円 雑感
大宮駅前「いづみや」もつ煮込み170円

 「サラリーマンじゃなくたって、忘年会やったっていいじゃないか」「もう来年の年賀状を書き終えてポストに出しちゃったし」ー。ということで、12月23日(月)、畏友栗原さんと2人だけで、埼玉県の大宮駅東口の駅前にある大衆居酒屋「いづみや」で忘年会をやりました。

 2人とも天下の素浪人ですから、昼間っから呑める御身分です(笑)。「いづみや」は朝の10時からやっている実に有難い呑屋さんです。創業は昭和22年といいますから、戦後闇市のバラック小屋から始まったんじゃないでしょうか。大宮は、太宰治が「人間失格」(昭和23年、新潮社刊)を書いた所ですから、酒好きの太宰もこの店に立ち寄ったかもしれません。

 私がこの店に入ったのは、実に40年以上ぶりぐらいです。当時、時事通信社の運動部記者で、大宮サッカー場(現NACK5スタジアム大宮)で日本サッカーリーグの試合を取材し、電話送稿した後、他社の記者仲間と一緒に入って、おしゃべりしたものです。会社のある都心から大宮まではちょっとした出張気分でした。読売新聞の木佐貫記者、共同通信の小山記者、日刊スポーツの内山記者、スポーツニッポンの加部記者、報知新聞の佐々木記者らがいたと思いますが、何しろ40年以上昔なので正確に覚えていません(苦笑)。

サッカー記者四天王

 当時のサッカー記者として既に大御所がいまして、朝日新聞の中条一雄(1926~2023年)、毎日新聞の荒井義行(1937~2023年)、読売新聞の牛木素吉郎(1932~)の3記者は「三羽烏」と呼ばれ、先日99歳で亡くなったサンケイスポーツの賀川浩(1924~2024年)を入れて、「四天王」と呼ばれたりしました。彼らがサッカージャーナリズムの基礎を作った、といっても過言ではないでしょうが、今では殆ど忘れられてしまっているかもしれません。

 私は、サッカーの記事は、会社の他に月刊「サッカーダイジェスト」にもよく書いたものでした。後に編集長になる六川亨さん(現評論家)にはお世話になったものです。

 あれっ?何でこんな話になったんでしょう?そうそう、忘年会の話でした(笑)。

大宮駅前「いづみや」創業昭和22年
大宮駅前「いづみや」創業昭和22年

 栗原さんとは最近、結構会っているのですが、いつもその度に、彼は「パソコンとプリンターの調子が悪いので直す。スマホにはLINEやメールのアプリをインストールしていないので、今度、携帯ショップに行って、やってもらってくる」という話をするのに、もう何年も、口だけでやっていないのです。今回も「パソコン直しましたか?携帯ショップに行きましたか?」と私が聞いても、「いや、まだ」「ちょっと面倒臭くて」と繰り返すばかりです。彼にメールを送ってもチェックはしないし、繋がらないので、私はいつもイライラします。でも、辛うじて音声の電話だけは繋がるので、今回の忘年会の場所を決めたりできたのです。

「やるやる栗原」は信念の塊

 そこで、私は、昭和11年の二・二六事件の際、首相官邸を襲撃した栗原安秀中尉のことを例に出しました。栗原は、襲撃する何年も前から、いつも周囲に「俺はやる」「必ずやる」と繰り返していたことから、「やるやる栗原」の異名を持っていました。ですから、畏友栗原氏に対して、「貴方も『やるやる栗原』ですなあ~」と言って、その謂れを説明したら、彼も「そっか~、その通りだなあ」と大笑いするのです。

 ところで、私自身は神仏を敬ってお参りもし、運命や運勢や占いを信じ、迷信に拘り、縁起までかつぐ人間なのですが、栗原さんは全くその正反対です。宗教を信じなければ、占いなどは当たらないと関心もなし。勿論、迷信も信じないというので感服してしまいました。私は、どちらかと言えば、信念がなく付和雷同で、いつも他人から振り回されるタイプなのですが、「やるやる栗原」は、本当に凄い。自分の意にそぐわないことはやらないし、神や仏に頼ったりしないのです。正反対の性格なので気が合うのかもしれません。

 まあ、そんなこんな、くだらない話で午後1時前に始まった忘年会は午後3時半まで続きました。平日の昼間ですから、お客さんの殆どが高齢者でした。

 熱燗を飲み過ぎましたが、隣席の知らないお爺さんお勧めのもつ煮込み(170円)は安くて美味しかったです(笑)。

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